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森田真生|MASAO MORITA
1985年、東京都生まれ。独立研究者。数学者・岡潔の著書『日本のこころ』と出合ったことがきっかけで数学の道へ。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。現在は京都に拠点を構え、研究活動を行う傍ら全国各地で「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」といったイヴェントを行っている。著書に『数学する身体』〈新潮社〉、編著に『数学する人生』〈新潮社〉がある。choreographlife.jp
──大学にはもともと文系で入学した森田さんが、数学を学び始めたきっかけは何だったのでしょうか?
ぼくは高校まではバスケットボールをしており、そのときの経験から「身体を通して考える」ということに興味をもっていました。身体を使った新しい学問をつくりたい、という壮大な夢をもって大学に入ったのですが、次第に「社会における身体」とは組織だと考えるようになりました。個人レヴェルではなく組織レヴェルの認知のあり方、「組織としての身体性」ともいえるものに興味をもち始めることになります。
当時起業が流行っていたこともあり、自分も組織=会社をつくりたいと思って20歳のときにシリコンヴァレーに行ったんですね。あちこちの会社に電話をして、いろんな社長やVCに会っていたのですが、そのときに会った人から「アカデミックなモチヴェーションで会社をつくりたいなら日本にぴったりの人がいる」と紹介されたのが鈴木健さん(現スマートニュース共同CEO兼会長)でした。
帰国して健さんに会いに行き、とにかくこの人はすごいと感銘を受けます。彼が新しく会社(サルガッソー)をつくろうとしていると聞き、カバン持ちでもなんでもいいから手伝わせてくださいと言ったら、その翌週に健さんがフットサルでアキレス腱を切ってしまって文字通りカバン持ちをすることになりました(笑)。そうして健さんとともに時間を過ごし、その思想の背景を教わるなかで、彼が尊敬するアラン・チューリングの本を読み始めたのが数学に触れることになったきっかけです。
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──同じく影響を受けた数学者である岡潔にも、そのころに出会ったのでしょうか。
健さんの会社を手伝い始めたころ、21歳のときに神保町の古本屋・明倫館で岡潔の『日本のこころ』に出合いました。ぼろぼろの文庫本で、数学の本なのに「数学」という言葉がほとんど出てこない。気になって買って読んでみると、「人が生きているとはどういうことなのか」「わたしとは何なのか」という根本的な問いにまっすぐに進む岡潔の思考を知ることになります。
例えば生物の授業を受けても、「生命とは何か」が正面から問われることはない。大学でいろいろ勉強して知識は増えても、本質の周辺をぐるぐると回っているだけのように感じていました。でも岡潔は、最初からそうしたど真ん中の問いに突き進んでいく。こういう学者もいるのかと衝撃を受け、彼が学んだ数学を自分も学びたいと思って数学科に入り直したんです。岡潔との出会いが人生を変えましたね。
──大学卒業後は「独立研究者」という肩書で活動をされていますが、そう名乗る理由は?
「私(わたくし)」という現象が、行為のなかからどのように立ち上がるのか。「私」というのが実体ではなくプロセスだということを強調して、哲学者エヴァン・トンプソンは「I-ing(私する)」という言葉を提唱しているのですが、ぼくは、数学という行為を通して「私する」メカニズムに近づきたい。数学が自己探究の道でもありうるということをぼくに教えてくれたのが岡潔で、ぼくはその精神を継承して自分なりの自己探究を始めようと心に決めたのです。
その自己探究を、どこかに所属をすることでできるとは思いませんでした。能力や出会いやいろいろな幸運が重なって、大学でもいきいきと研究ができる人もたくさんいますが、ぼくの場合はそうではなかった。逆に大学から離れて、初めて等身大でリアルな学びが始まったという実感があります。
「これが知りたい」という気持ちがあったら、そのためにあらゆる手段を尽くすのが研究の原点です。ぼくは研究室で生き残ったり、出世したりするためじゃなく、自分の知りたいことを探究していきたい。それが世間にどのように評価されるかは最後までやってみないとわかりませんが、少なくとも自分がリアルだと思えることを、手応えを感じながら研究していきたい。そういう想いで「独立研究者」と名乗っています。
──独立研究者として、現在行われている活動について教えてください。
岡潔は「情的にわかったことを知的に表現する」ことが学問だと言いました。論文は知的表現のひとつの方法ですが、ほかにも数学を伝えるにはいろいろな手段がありうると思います。
例えばぼくが開催しているイヴェントのひとつに「数学の演奏会」があります。音楽の世界でも、楽譜というのは情的な世界の知的表現ですが、たとえ楽譜が読めなくても演奏会を聴いたら音楽を感じることができますよね。それと同じように数学の世界にも「演奏」がありえるんじゃないかと考え、論文や数式が読めなくても、数学の情(こころ)に直接触れられる場をつくれないかと模索しています。
芸術の世界に鑑賞や評論があるのと同じように、数学の世界にも論文を書く以外にさまざまなかかわり方があるはずです。自分自身でも実験をしながら、数学的な感動の経験を知的に分かち合う方法を探っていきたいと思っています。
──「数学=数式を解く」といったイメージがありますが、それ以外にも数学を楽しむ方法はたくさんあるということですね。そのように数学に触れる意義というのはどんなところにあるのでしょうか?
数学の対象は「数」も含めて、人間がつくり出した人工物です。人間の思考が生み出した数学的対象について、人間が思考するわけですから、数学というのは思考が思考自身について思考しているようなところがあります。だからこそ数学研究は、常に「自己探究」の要素を孕んでいることになります。
岡潔は、数学という行為に耽るなかで大きな自己の変容を経験しました。そのときの様子を彼は、まるで「内外二重の窓がともに開け放たれ」るような解放感と描写しています。
自分とは何か、あるいは自分とは何でありうるか。数学を通して、そうした問いを知的にも、情的にも掘り下げていくことができる。ぼくは数学のもつそういう可能性をもっともっと追究してみたいと思っています。
──『数学する身体』では、岡潔のほかにもチューリングを取り上げて、心をマシンのなかにつくることで心を考えようとした彼の思考を説明しています。チューリングの研究から始まった人工知能(AI)分野がいま社会の注目を集めていますが、このAIブームについてはどうお考えでしょうか?
知性には2種類あると思っています。ひとつは「自力」の知性。自分の手持ちのルールを駆使して、巧みな計算によって問題を解決していくようなタイプの知性です。もうひとつは「他力」の知性。手持ちのリソースで計算するというよりも、身体を使ってうまく進行中の世界の一部に同化していくようなタイプの知性です。
哲学者のアンディ・クラークが著書『現れる存在』(原題:Being There)のなかで「90 percent of life is just being there」というウディ・アレンの言葉を紹介しているのですが、生命の最大の使命は「ただそこにいること(being there)」。高度な記号操作で難しい計算をするというよりも、いかにして進行中の環境や世界の一部であり続けられるかということです。
「人工“知能”」といわれていますが、自力の知性だけでなく、他力の知性についても考えなければ本当の「知能」とは言えません。そういう意味で現状のAIはartificialなだけでなく、すごくsuperficial(表層的)という印象があります。
では、知性の深層とは何か。ぼくは「compassion」(慈悲)というものがこれからすごく大事になってくるのではないかと思っています。心というのは肉体の中に閉じたものではなく、他と通い合うことができる。通い合う心を基盤とした知性について、AIの観点からどのようなことが言えるのか。AIのそうした可能性にぼくは興味があります。
──さまざまな数学者がAIの発展に貢献してきたなかで、森田さんが現在のAIのあり方に懐疑的であるのは意外でした。
自然科学は、よくも悪くも進み続けることで自己維持しています。それによって凄まじい勢いで「事実」が積み重ねられ、その積み重ねが経済や技術と繋がって思いもしない「行動」を生み出していく。
小林秀雄が岡潔のエッセイを読んで、「岡氏の文章は、瞑想する一人の人間へ、私を真っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥は、何か全く見当が外れているように思われてくる」と書いています。虚偽よりは事実のほうがいいし、机上の空論よりは行動のほうがいい。でも、事実と行動にはその「外」がある。それを岡潔の文章からしみじみと感じるというのです。
AIの凄まじい発展を見ていると、「ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦燥」というこの言葉をつい思い起こしてしまいます。確かにその進歩が知的にエキサイティングなことは間違いないのですが、同時に、この虚しい焦燥感は何なのだろうかと思うことがあります。ただひたすら前に進み続けることでしか自己維持できなくなってしまっている現代の学問の焦燥から一歩引き下がって、「事実と行動の外にある平和」を探っていくような視点が、いまこそ必要な気がするんです。
──『数学する身体』では、岡潔が晩年、情緒と喜びを価値とする「新しい人間観と宇宙観の建設」を目指して『春雨の曲』と題された文学を遺そうとした(作品は未完のまま眠っている)ことが書かれていましたが、森田さんも数学を通して新しい世界観を提唱しているように思います。最後に、岡潔が目指した「情緒ある世界」をつくるために森田さんがこれから行っていきたいことを教えてください。
岡潔は、人は情緒を清め、深めていくために生きているのだと言いましたが、ぼくはそれを大真面目に受け取っています。生きることは情緒を深めていくことである、と。
岡潔はこの世の根本にあるのは「懐かしさ」と「喜び」だとも言いました。だからぼくは、せっかく学問をするなら、知性の力で生きていることが喜びであると感じられるような世界をつくっていきたい。事実と行動を重ねることも重要ですが、そもそもぼくたちは何に向かって生きたいのか。そういうヴィジョンが必要だと思うんです。
独立して学問を追究していくというのは、楽なことではありません。丸腰で荒野を彷徨っているような気分になることもあります。だけど、この生き方を貫けたなら、ぼくが岡潔に影響を受けたように、ぼくの生き方がほかの誰かを励ますこともあるかもしれません。
自他超えて通い合う「情」が、個々の肉体に宿って「情緒」になるのだと岡潔は言いました。ぼくは、ぼくなりの「情緒」を深めていきたい。この肉体において、この生涯において、自分が本当だと思った生き方を貫いていくこと。それが、自分のやるべきことなのだと思っています。
※『WIRED』日本版本誌VOL.23では、森田真生が「考える」をテーマに選んだ5冊の書籍を紹介している。
PHOTOGRAPHS BY SADAHO NAITO
TEXT BY WIRED.jp_U