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綿州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

綿州(めんしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から民国初年にかけて、現在の四川省綿陽市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

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553年廃帝2年)、西魏により設置された潼州を前身とする。

隋代

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初には、潼州は3郡8県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、潼州の属郡は廃止された。585年(開皇5年)、潼州は綿州と改称された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、綿州は金山郡と改称され、下部に7県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
潼州 金山郡
巴西郡 万安郡 安城郡 巴西県 昌隆県 魏城県
金山県 神泉県 万安県
涪城県
巴西県 昌隆県
魏城県 金山県
益昌県 西充国県
万安県 涪城県

唐代

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618年武徳元年)、により金山郡は綿州と改められた。742年天宝元年)、綿州は巴西郡と改称された。758年乾元元年)、巴西郡は綿州の称にもどされた。綿州は剣南道に属し、巴西・涪城・昌明・魏城・羅江・神泉・塩泉竜安西昌の9県を管轄した[2]

宋代

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のとき、綿州は成都府路に属し、巴西・彰明・魏城・羅江・塩泉の5県を管轄した[3]

元代

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のとき、綿州は潼川府に属し、彰明・羅江の2県を管轄した[4]

明代以降

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1370年洪武3年)、により綿州は成都府に転属した。1377年(洪武10年)、綿州は綿県に降格した。1380年(洪武13年)、綿県は再び綿州に昇格した。綿州は彰明・羅江の2県を管轄した[5]

1727年雍正5年)、により綿州は直隷州に昇格した。綿州直隷州は四川省に属し、徳陽綿竹梓潼・羅江の5県を管轄した[6]

1912年中華民国により綿州直隷州は廃止され、綿陽県と改められた。

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ 旧唐書』地理志四
  3. ^ 宋史』地理志五
  4. ^ 元史』地理志三
  5. ^ 明史』地理志四
  6. ^ 清史稿』地理志十六