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扶州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

扶州(ふしゅう)は、中国にかつて存在した

魏晋南北朝時代

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北魏により設置された寧州を前身とする。西魏により鄧州と改称された。

隋代

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初には、鄧州は4郡4県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、鄧州の属郡は廃止された。587年(開皇7年)、北周が設置した扶州が廃止され、嘉城県及び金崖県は鄧州に、交川県及び江潭県はそれぞれ会州に移管された。同年、鄧州は扶州と改称された。606年大業2年)に芳州が廃止され、その管轄地域が扶州に移管された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、扶州は同昌郡と改称され、下部に7県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
鄧州 扶州 芳州 同昌郡
鄧寧郡 鉗川郡 封統郡 昌寧郡 竜涸郡 深泉郡 恒香郡 尚安県 鉗川県
同昌県 帖夷県
嘉城県 金崖県
封徳県 常芬県
丹嶺県
尚安県 鉗川県 同昌県 帖夷県 嘉城県
金崖県
封徳県
理定県
常芬県
恒香県

唐代

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618年武徳元年)、により同昌郡は扶州と改められた。742年天宝元年)、扶州は同昌郡と改称された。758年乾元元年)、同昌郡は扶州の称にもどされた。扶州は剣南道に属し、同昌・万全・鉗川・帖夷の4県を管轄した[2]。乾元年間以後に扶州は吐蕃に占領された。848年大中2年)、山南西道節度使の鄭涯が扶州を奪回した[3]

脚注

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  1. ^ 隋書』地理志上
  2. ^ 旧唐書』地理志四
  3. ^ 新唐書』地理志四