【書評再録】石原慎太郎著『光より速きわれら』を読む

昭和51年(1976)4月、「三田文学」5月号に執筆した書評を再録する。富岡幸一郎氏との対談で触れた47年前の学生時代に書いた書評である。大学を中退する頃に書いたもので、その後、7月に株式会社ニューミュージック・マガジン社に入社、社会人としての生活を始めることになる。

→『「クライテリオン」石原慎太郎とは何者だったのか?――政治と文学。富岡幸一郎氏と徹底的に語る』はこちら(pdfファイル)


石原慎太郎著『光より速きわれら』を読む

西村幸祐

石原氏の久し振りの長編小説である。全体が四章から成り、「甘い毒」「天体」「饗 宴」「舞踏」の各章が二年以上の間に渡って断続的に発表された。そのせいか統一的な構成には不満を残すものの、第一章の冒頭で展開される早朝の 神宮球場でのヌード撮影の場面には、妙に生々しい現実感を持ったスペクタクルとし てこの物語全体を貫く、大きなうねりを予感させるものがある。そしてそのうねりは 一瞬一瞬の閃光にも似た軽佻浮薄な現代風俗の様態を我々の前に詳かにしてくれる。 『太陽の季節』以来、石原氏の作品世界にとって〈風俗〉は殆どその滋養分になって いたと言える。考えてみればこれは驚くべき事であって、時代を捉える確かな批評精 神の証左とも言えるだろう。

クラブ経営者の良という男が主人公であるが、主人公と云っても彼は全編を通じて 登場する奇怪な前衛舞踏家、葛城東兵衛とポジとネガの関係にあり、東兵衛の前では ワキとなる。この影の主人公、東兵衛や第三章「饗宴」から登場する興行師の大影の モデルと思しき人物が実在するが、彼等を始め、この小説に多く登場する作家や写真 家と云った自由業の人間達は、大影の言う「虚業家」として尖鋭化した〈風俗〉を作 品の中に定着させる事に成功している。つまり作家が現代に何を視て、如何に書くか と云う難問に対して、石原氏は〈風俗〉の或る極限化された状態を設定し、凝縮して みせたに過ぎない。そしてその凝縮された美しい結晶が現代社会の病根を帰納しているのである。

この帰納法が成功した原因には恐らく石原氏が舞踏と云うものを持ち出し、〈肉 体〉を手掛かりに人間の蘇生を試みようとした事が挙げられるだろう。作品中の性 (セクス)の意味にしても『太陽の季節』『行為と死』に於けるそれと『化石の森』 と本書でそれが顕しく変化しているのも見逃せない事実だ。

良は仲間達と屢々マリファナ、LSDによる「トリップ」を行う。良は妻子と別居中 であり〈旅(トリップ)〉は家庭からの。そして「堂々巡り」からの脱出でもあった。 東兵衛の弟子のミキと云う踊子に良が魅かれて性交渉を持つが、「手に触れているす ぐ横のミキの感触が信じられない。」彼は「もっと確かに二人を繋ぐもの」として〈旅 (トリップ)〉を思い立ち、実際その後富士山の中腹での幻想的な性行為を通じて良 はミキと繋がれたと思うのだが、ミキは失踪してしまい、遂には死体となって良と再 会する。ここで注目すべき点は初めてミキと交った際に東兵衛の幻影が彼の前に立ち 塞がった事である。「感覚が法律だ」と言う東兵衛は舞踏を「肉体の陶酔の管理」と 定義して次のようにも言う。「人間の感覚も精神も、一度解体しようなんて思って見る間に、もう溶けてしまっているんだ。その上に薬でトリップして見ても、それは、 衛生博覧会、グロのグロだ。」こうして〈旅(トリップ)〉による幻想は舞踏による 肉体に打ち砕かれている。肉体と幻想が対峙していた時には、良や大影は東兵衛から 自由であるが、その均衡が崩れると二人は東兵衛から逃れられなくなり、彼の支配下 に置かれて行く。終章で東兵衛が見せる〈奇跡〉に何よりもそれがよく物語られてい て、ワキの東兵衛がシテに変化する経緯がドラマティックに描かれている。そして、 この結末では東兵衛が現代に蘇ったディオニュソスとして全世界に君臨し、我々に不 気味な視線を投げかけるのである。この小説は石原氏の信仰告白の書でもあり、紛れ もなく近年の問題作の一つである。(鬼悟)


※安部公房研究家の岩田英哉氏がブログでこの書評の紹介し、第7次「三田文学」編集部で一緒だった当時を回想している。→Abe Kobo's Place(安部公房の広場)


スリランカ独立、スリランカ人弁護士が日本の戦いに謝辞を。

――スリランカメディアに掲載。大東亜戦争を戦った日本へ、感謝を込めたエッセイ。

今年の2月4日は、スリランカの69回目の独立記念日だが、スリランカ人弁護士、セナカ・ウイーララトゥナ氏は、日本の大東亜戦争参戦によりヨーロッパ植民地主義体制が崩壊し、スリランカはその恩恵を受け、スリランカの独立を達成したという主旨の論文を寄稿した。

※原文の後に日本語訳が続きます。
Sri Lanka’s Independence – a beneficiary of Japan’s entry to the Second World War which sealed the fate of European Colonialism in Asia
Posted on February 2nd, 2017
Senaka Weeraratna
Sri Lanka together with several other Asian countries owe much in winning their freedom, to Japan’s entry to the Second World War and the resulting chain of events that sealed the fate of European colonialism in Asia.

Jawaharlal Nehru, the Indian Prime Minister, when asked in the 1930s to name a likely date that India would win independence from Britain, replied by saying it would probably be in the late 1970s i.e. long after their time.

The fact that India gained freedom in 1947 much earlier than the date that Nehru thought was possible, followed by Burma and Ceylon in 1948, was largely due to the interplay of both external and internal factors.

Today, there is a great turn around in Historiography in respect to the role of Japan in the Second World War. Japan no longer has a pariah status or subject to isolation because of its conduct in the war. In fact, except in a couple of Far Eastern nations, Japan is increasingly gaining acceptance and recognition in much of Asia for being the catalyst in igniting the relatively dormant Asian Independence movements.

Nehru himself refused to take part in the San Francisco Peace Treaty Conference held in 1951 on several specified grounds and declared that Japan has done no wrong to India for India to seek an apology and reparations from Japan. India’s sympathies beginning with Subash Chandra Bose and Judge Radhabinod Pal ( the only dissenting Judge in the Tokyo War Crimes Trial) have always been with Japan. J.R. Jayewardene from Ceylon made a resounding plea for Japan using the Buddha’s insightful words that ‘Hatred does not cease by hatred, but only by love; this is the eternal law.”

Asia’s leaders and Historians now see a direct and incontrovertible connection between the Japan’s attack on Pearl Harbour and Western Colonial bases in Asia, and the subsequent success of the independence movements which drew inspiration from Japan’s courage to take on the West and liberate Asian colonies. Japan more than any other Asian country was responsible for sealing the fate of European colonialism in the Orient.

Historiography and the narrative on who won Independence for India in 1947 is also rapidly changing with an increasing number of writers prepared to give credit to Netaji Subash Chandra Bose, Indian National Army and Japan for the eventual liberation of India, while conceding to Mahatma Gandhi and his followers due respect for their noble and sustained efforts in seeking freedom from British colonial rule.

New Book

In a new Book ‘ Bose: An Indian Samurai’ by military historian General GD Bakshi, claims that the former British Prime Minister Clement Atlee had said that the role played by Netaji’s Indian National Army was paramount in India being granted Independence, while the non-violent movement led by Gandhi was dismissed as having had minimal effect.

In the book, Bakshi cites a conversation between the then British PM Attlee and then Governor of West Bengal Justice PB Chakraborty in 1956 when Attlee – the leader of Labour Party and the British premier who had signed the decision to grant Independence to India in 1947 – had come to India and stayed in Kolkata as Chakraborty’s guest.

Chakraborty, who was then the Chief Justice of the Calcutta High Court and was serving as the acting Governor of West Bengal, is quoted as saying : “When I was acting governor, Lord Attlee, who had given us Independence by withdrawing British rule from India, spent two days in the governor’s palace at Calcutta during his tour of India. At that time I had a prolonged discussion with him regarding the real factors that had led the British to quit India.”

“My direct question to Attlee was that since Gandhi’s Quit India Movement had tapered off quite some time ago and in 1947 no such new compelling situation had arisen that would necessitate a hasty British departure, why did they had to leave?”

“In his reply Attlee cited several reasons, the main among them being the erosion of loyalty to the British crown among the Indian Army and Navy personnel as a result of the military activities of Netaji,” Chakraborty said.

“Toward the end of our discussion I asked Attlee what was the extent of Gandhi’s influence upon the British decision to leave India. Hearing this question, Attlee’s lips became twisted in a sarcastic smile as he slowly chewed out the word, ‘m-i-n-i-m-a-l’,” Chakraborty added.

Fear of another Indian Mutiny

Though Japan lost in 1945, the legacy of Subhas Chandra Bose endured to stir the Indian masses and soldiers of the British Indian Army・・・・以下、リンク先

 

 

 

Senaka Weeraratna

Sri Lanka’s Independence – a beneficiary of Japan’s entry to the Second World War which sealed the fate of European Colonialism in Asia

【日本語訳】
スリランカの独立――日本が第二次世界大戦に参戦したことにより、アジアに於けるヨーロッパの植民地主義は崩壊し、その恩恵を受けたのがスリランカの独立だった。

Lankaweb 2017年2月2日投稿
セナカ・ウィーララトゥナ

アジアの他の数か国と同様に、スリランカも、日本が第二次世界大戦に参戦したおかげで、自由を獲得するきっかけを摑んだ。日本の参戦の結果、ヨーロッパの植民地主義がアジアから駆逐されるスパイラルが始まったのだった。

インドのジャワハルラール・ネルー首相は、1930年代に、インドが英国から独立できるのはいつになるだろう、と訊かれたときに、「遥か先のことだ。おそらく1970年代になるだろう」と答えた。
ネルーが想像もできなかったほどの、1947年という早期にインドは自由を獲得することができた。インドに引き続いて、1948年には、ビルマとセイロンが独立した。外的要素と内的要素が複雑に絡み合って起こった現象だった。

今日、第二次世界大戦に於ける日本の役割について、歴史学界では大き転換がおきている。日本はもはや戦時中の行為により、爪弾きにされたり孤立に甘んじたりすることはない。
事実、極東に位置する二三の国を別とすれば、アジア諸国はますます日本を受け入れるようになり、アジアの独立運動がなかなか覚醒することができなかったのに、日本が触媒となって火をつけたたという認識が広まって来たのである。

ネルー自身は、1951年のサンフランシスコ講和条約にいくつかの理由で参加することを拒絶した。ネルーは、「日本は、インドが謝罪と賠償を要求しなければならないほどの悪事を行ったことはない」と宣言した。
スバス・チャンドラ・ボースに始まりラダ・ビノード・パール判事(東京裁判で只一人反対意見を述べた)などインドが日本に好意的だったことはよく知られているが、その後もインドは日本への同情を失ってはいない。セイロンのジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(J.R. Jayewardene)は明確に日本を弁護した。釈迦(仏陀)の憎しみは憎しみによっては止められない。憎しみを止められるのは愛だけだ。これは永遠の法則である」という言葉を引用して確固としてに日本を弁護した。

アジアの指導者や歴史家たちは、今では、日本の真珠湾攻撃は、西欧がアジアに植民地基地を保有していたことと直接の確実な関係を持っていたと考えている。さらに、その後、独立運動が成功したのは、日本が西欧に挑戦し、アジアの植民地を解放しようという勇気を示したことに触発されたのである。ヨーロッパ人の植民地主義を東洋から駆逐した功績にかけては、日本は他のアジア諸国の追随を許すものではない。

1947年のインドの独立は誰のおかげで達成されたのかという問題についての、歴史学、歴史記述も、現在急速に変わりつつある。ネータージ・チャンドラ・ボース、インド国民軍および日本が、インドの最終的な独立をもたらした功労者だったと評価する著述が着々
と増加している。もちろん、一方では、マハトマ・ガンディーおよびその同志たちが、高貴な一貫した努力を続けて、英国の植民地支配から解放を達成したことを忘れてはならないのであるが。

新刊書

戦史家 G.D.バクシ将軍著の新刊「Bose: An Indian Samurai」(チャンドラ・ボース:インドのサムライ)は、英国の元首相クレメント・アトリーの言葉を引用している。「ネータージ(ボース)のインド国民軍は独立達成のために至高の功績を遺した。それに比べれば、ガンディに指導された非暴力運動は、ほとんど効果を挙げることができなかったと言ってもよい」。
本書に於て、バクシは、1956年の面白い對談を引用している。かたや元英国首相アトリー、片や西ベンガルの判事 PB チャクラボーティである。

アトリーは、1947年には、労働党党首かつ英国首相であり、インドに独立を与えた人物である。ちょうど、このとき、インドに来て、チャクラボーティの客人として、カルカッタに滞在していた。
チャクラボーティは、当時カルカッタ高等裁判所主任判事だったが、西ベンガルの知事代理を務めていた。この人は、こう言ったと伝えられている。
「アトリー氏は、インドから英国軍を撤退させて独立を達成させてくれた人物である。私が知事代理だったとき、この人がインドを訪問し、カルカッタの知事官邸に二日間滞在したことがあった。この時、私は、英国がインドを放棄した本当の理由について、彼と長時間にわたって議論した。」

「私は、アトリーに対して、率直にこう質問した。ガンディの『クイット・インディア(インドを立ち去れ)運動』はその頃よりかなり前に立ち消えになってしまっていた。英国が慌ただしく去って行かなければならない状況は生じていなかった。それなのに、なぜ去らなければならなかったのか」
「これに対して、アトリーは、いくつかの理由を挙げた。その中で一番重要だったのは、ネータージの軍事活動の結果、インド陸海軍の将兵の間で、英国王室への忠誠心が失われてしまったことだった」とチャクラボーティは述べた。

「対談が終わろうとする頃、私はアトリーに、『英国がインドを去ろうと決心した背後には、どの程度ガンディの影響があったのか』と訊いた。アトリーは、この質問を聞くと、脣を歪めて、皮肉な笑みを見せた。そして、ゆっくり噛みしめるようにして言葉を付け加えた。『ほとんど全くなかったね』と」

インド人がまた反抗したら大変だ

日本は1945年に敗北を喫したが、スバス・チャンドラ・ボースの伝説は滅びず、インドの大衆とイギリス・インド陸海軍の兵士を鼓舞し、レッドフォートの INA(インド国民軍)の将校たちの裁判に続いて反乱が起きた。英国がインドを放棄する時期が来た(そして、数か月以内にビルマもセイロンも)と判断したのは、1857年の暴動(セポイの乱)よりも大規模な反乱が起るではないかという恐怖に駆られたからだった。

植民帝国が自発的に植民地から撤退するということは、時の流れに抗しがたい場合か、もしくは状況に迫られた場合にしか考えられない。この仮説を支持する決定的な証拠は、第二次世界大戦の後に、オランダとフランスが、アジアの植民地に再び進出しようとして敗れ、屈辱的な撤退を余儀なくされたことである。第二位世界大戦の間に、日本はオランダの支配を打倒した。そして、それまで抑圧されていたインドネシアの独立運動を鼓舞したのだった。

フランスとオランダは、ナチの横暴な支配に抵抗し、やがてそこから解放された悦びを味わったという歴史を持つ(1940~1944)。それにもかかわらず、この二つの植民地帝国は、自分たちがヨーロッパで獲得した自由をアジア(およびアフリカ)の被支配民族に共有させようとはしなかったのである。戦後、戻って来たときには歓迎されなかった。

スカルノの指導するインドネシア軍を援助したのは、敗戦後に残留した日本軍兵士のボランティアだった。これに力を得たインドネシア軍は、激戦の末に1949年についに独立を達成したのだった。同様に、ホーチミン率いるベトミンは、1954年に、ディエンビエンフーで大勝利を挙げ、フランスから支配権を奪った。その結果、1954年のジュネーブ協定で、フランスはついにインドシナの全植民地から撤退することになった。

外的要素

これまでのところ、主流の論調は、英国の占領下にあったセイロンの独立運動の独立を早めることに貢献した外的要素をきちんと説明するには至っていない。
セイロンの植民地としての歴史を研究すると、地方に分立する王たちがセイロンを部分的に占領する外国勢力を駆逐するために、別の国の援助を求めたことから始まったことがよく分かる。

キャンディの数人の王は、オランダ軍と接触し、1638年にキャンディで条約を結んだ。それによって、オランダ軍はポルトガル勢力を追放するために、キャンディ王朝のラジャシン二世王に協力し、1658年についにそれを達成したのだった。
またさらに、キャンディの王たちは、18世紀の末に、オランダによるセイロン占領を終わらせるために英帝国の援助を求めた。これも、1796年に達成された。

この論文の目的は、英国のセイロン支配に終止符を打ち、1948年の独立を達成するために、これまた外部の要素が大きな貢献をしたことを証明しようというものである。
こういう外的な要素を忘れて、現地の人々ばかりを「自由の戦士」として称賛するのは現実的ではない。1848年以降は、セイロンには自由の戦士はいなかった。植民地支配からの解放を求める戦いの最後の銃弾が発射されたのは、1848年、マータレーでの第二次独立戦争(マータレーの反乱)の時のことだった。

その次の世代には、自由を求める雄弁家や著述家や研究者が輩出した。中には国土を現地人の手に取り戻すよりは、英国の植民地支配が続くことを主張する者もいた。英国から爵位などの特権をもらい、植民地政府に協力する者もいた。
以前の世代には、ケッペーティポラ、ディソー、ゴンガレゴンダ・バンだ、プラン・アプ、さらにもっと前の時代には、シタヴァカ・ラジャヤシンゲ、マヤヅンネ、ヴィーディヤ・バンダラ(ビスマ・イセンキ七世の女婿)、ウィララヅハーマスリヤ一世、ラジャシン二世などの戦士たちがいたが、この新しい世代には、そのような人々は出なかった。

セイロンの当時のダのダーたちは、「憲法的改革」を求めたのであり、インドネシアのような武力による抵抗やインドのような非暴力による不服従による全面的独立を追及したわけではなかった。アジアの他の国々のナショナリズムのリーダーたちはアジアの西欧支配に対し
て、武力と決意を以って戦った。
例えば、東条英機(日本)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)、毛沢東(中国)、ホーチミン(ベトナム)、スカルノ(インドネシア)、アウン・サン(ビルマ)などである。他のアジアの自由の戦士たち、愛国者たちは、西欧の人々が本当に理解し、本当に尊敬する唯一の言語を使った。それはすなわち武力である。

セイロンの独立運動は、アンゲリカ・ダルマパラを別とすれば、アジアの解放のために発言し、戦闘に従事して、海外で広汎な支持と称賛を得た名誉あるリーダーを一人も生み出さなかった。

歴史学―スリ・ランカで無視されている分野

セイロンは外国支配に対する本格的な意味の高いを行わなかったにもかかわらず、1948年には幸いにも独立を達成した。第二次大戦でアジアの西欧支配と闘い血を流したのは基本的に日本の兵士であった。我々はこれらの犠牲と闘いの受益者であった。我々はアジ
ア同胞の支援をいつかはしっかりの認識しなければならない。

スリランカの歴史学(historiography)は、他の国々に比べると後れている。無視されている分野なのである。第二次世界大戦に関する記述となると、我が国(セイロン)の歴史家は、外国人の史観を鸚鵡返しに反復して、自己に都合の良い解釈をしてきたのである。研究と著述に関して別個の独創的な独立した道を探求しようとはしない。
今や、我々は歴史的な出来事を植民地帝国の視点からではなく、外国の占領に抵抗した国内外の人々の視点から見ることを学ばなければならないのである。

※日本語訳は下記リンクより
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Senaka2.pdf


反日の正体とは、何か?


 日本人の中に歴史の嘘を見抜き、〈マトリックスとしての反日〉に対決し、打ち破り、そこから決別しようという人が増えてきたのは、日本の〈いまここ〉が、時代が大きく変わる分水嶺に差し掛かっているからである。東日本大震災を契機に、自虐史観の呪縛から解放された人も少なくない。戦後のシステム、戦後日本を作り上げてきた体制の〈嘘〉を見抜いた人が増えている。
 政権交代の挙句の果てが、統治能力に著しく欠如した民主党政権の醜態だったのだから当然である。その醜い姿を見れば、平成二十一年(二〇〇九)の総選挙でメディアに騙された人でも気づいているはずだ。
 東日本大震災は大地を引き裂き、海底の地殻変動と津波で日本人の日常を切り刻んだだけでなく、時代に大きな裂け目を作ったのだ。その裂け目から虚妄の戦後体制の姿が見えている。そうでなければ、石原慎太郎都知事の尖閣諸島を東京都が地権者から購入するというアイデアが、あれだけの支持を集めるわけはなかった。
 先に文庫化された『「反日」の構造』の文庫版まえがきで〈マトリックスとしての反日〉という概念をご説明したが、本書の解説にもそれは必要不可欠なものになっている。そして、ここで明確にしたいのは、〈マトリックスとしての反日〉の本当の正体は、捏造史観で永久に日本に謝罪と賠償を要求する韓国人でもなければ、覇権主義で日本侵略を虎視眈々と狙う支那人でもなく、また、日本の属国化を永久化したい米国でもないということである。〈マトリックス〉、つまり仮想現実としての〈反日の正体〉とは、それらの国や民族を唆[@ルビ・そそのか]して、反日の材料を供給している日本人に他ならないということである。
 本書『反日の正体』は平成十八年(二〇〇六)二月二十八日にPHP研究所から発売された『反日の超克』の文庫版である。先に文庫化された『反日の構造』の続編であるが、再読すると、前書同様、この六年間で何一つ重要な問題が解決されず、大きな危機が今なお一向に回避されていないことに驚かざるを得ない。と同時に、言論の無力、〈マトリックス〉の強固な壁の存在を再確認するしかなかった。
 六年前に上梓された本書の内容が全く古くなっていないことに、本書の価値を見出す読者もいるかも知れない。しかし、私は自分が書いたテーマが時事的な問題を超越する普遍性を持っているということより、むしろ言論の場である論壇、あるいはジャーナリズムの影響が矮小化したことと、言論そのもの無力さに虚しくなる。それだけ、日本人の言論が多くの日本人に届かないような情報封殺システムに私たちが絶えず脅かされていることにも気づくのだ。なお、文庫化にあたって、時制の統一などを加筆、訂正している。
(文庫版まえがきより)
詳細案内ページ→https://kohyu-nishimura.com/hannichinoshotai.html


幻の黄金時代 オンリーイエスタデイ’80s


「幻の黄金時代」とは、歴史上で日本が経済的に最も繁栄し、経済的、政治的な分野に留まらず、文化的にも日本の影響力が世界に波及して、日本人がわが世の春を謳歌した1980年代のことを指す。
そんな80年代(昭和55年~平成元年)のあらゆる事象を振り返り、文化的、歴史的、政治的、社会的脈絡の中から80年代の現代史と文化を描いたのが本書である。
なぜ、「黄金時代」が「幻」で終わったのか?
その20年~30年前の原因に、現在の日本が未曽有の混乱、衰退から脱出する鍵がある。
90年代以降の日本は、いわゆる「失われた10年」、あるいは、現在まで続く「失われた20年」を過ごしている。
その期間はそのまま冷戦崩壊後の20年に重なっていることが重要だ。
現在の私たちは、経済的にも、政治的にも、文化的にも、最も困難な時代を迎えている。
日本と日本人が今、最悪の状況に直面している遠因は、この80年代の「黄金時代」が「幻」で終わってしまったことにある。
本書は、東日本大震災、長期化するデフレ不況、民主党政権の無力などで危機に直面する日本に、再生と復興のヒントを示唆するものとなるだろう。
詳細案内ページ→https://kohyu-nishimura.com/only-yesterday-80s.html


悲しい年末。或るブロガーの急逝。

花うさぎさんが突然亡くなられた。脳血栓で倒れたとの第一報に接しても、必ず回復するだろうと安心し切っていた。ツイッターでしばりょうさんという方が花うさぎさんのご子息の書き込みを教えてくれた時だった。
そして2日後の12月27日、病院にお見舞いに行こうかと、場所などを訊くためにご子息に電話をすると、突然、亡くなられたことを告げられた。
驚いたのはもちろんだが、悲しくて悲しくて仕方がない。ご子息との会話は、こみ上げてくるもので何秒も中断せざるを得なかった。こんなに悔しいことはない。彼との約束が果たせていない。慙愧の念に堪えない。
彼と初めてお会いしたのがいつだったのか、確かな記憶はない。
少なくとも5年前の平成18年(2006)、その頃には「花うさぎ」というハンドルネームで、彼は幾つかの人気ブログのコメント欄に登場していたはずだ。
自然と言葉を交わすようになったのは、私が講師として、あるいは取材者として参加する様々な集会やシンポジウム、そしてデモの現場で彼といつも顔を合わせるようになっていたからだ。
やがて安倍政権が倒れ、福田内閣が成立して暫くしてから、更新頻度が落ちた私のブログに彼がトラックバックを時々送ってくれるようになった。「花うさぎの世界は腹黒い」が誕生した瞬間だった。
平成21年(2009)にNHKの「JAPANデビュー」問題でNHKへの抗議活動が盛んになると、頻繁にお会いするようになった。その頃から彼のブログの質的充実は目を見張るようになった。彼は、いつも取材現場で熱心にメモを取り、写真の撮影を行っていた。そして、読者をどんどん獲得していく様子が手に取るように分かった。
フェアな視点と独特な平衡感覚で、客観的に自らが参加したイベントやデモを報道するようになっていったのだ。それは、既存メディアが決して報じない、日本人の愛国者たちの政治活動を丹念に、冷静にフォローすることを意味していた。
「もうブログやめちゃったんですか? 好きだったのに、残念ですよ。ツイッターやフェイスブックに移っちゃったんですか?」
彼に何度かこう言われた。
「いやぁ、また再開しますよ」と返事をしたものの、その約束も果たせていない。
彼の写真は構図といい「ピン」といい素晴らしいものが多かったので、何回か「撃論ムック」に使わせて頂いたこともある。
「もうちょっと日本がマシになったら、ゆっくりお酒でも飲みましょう」
こんな会話もしていたが、その約束も果たせていない。
「正月になると孫がいっぱい来て大変ですよ」と嬉しそうに語ってくれたこともある。
花うさぎさんは、本当に純粋で真面目で、一本気で、誤魔化しが大嫌いだった。
ごく普通の日本人が、普通に、常識的に、穏やかに、日本を愛していただけだった。
彼のそんな素朴な感情が、怒りと疑問に満ち溢れて毎日ブログを書かなければいけないほど、現在、私たちの国は異常な状態になっているのである。
花うさぎさん、お疲れ様でした。心からご冥福をお祈り申し上げます。