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龍田丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
龍田丸
基本情報
船種 貨客船
クラス 浅間丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱造船長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 浅間丸秩父丸(鎌倉丸)
信号符字 JFYC[1]
IMO番号 35362(※船舶番号)[1]
建造期間 834日
就航期間 4,714日
経歴
起工 1927年12月3日
進水 1929年4月12日
竣工 1930年3月15日
就航 1930年4月25日
最後 1943年2月8日被雷沈没[2][3]
要目
総トン数 16,955トン[3]
純トン数 10,017トン[4]
載貨重量 8,170トン
全長 178.0m
垂線間長 170.68m
型幅 21.98m
型深さ 12.98m
高さ 33.52m(水面からマスト最上端まで)
10.06m(水面から船橋最上端まで)
11.88m(水面から煙突最上端まで)
喫水 8.71m
主機関 三菱スルザー8ST68/100 2サイクル単動空気噴射式ディーゼル機関 4基[5][6]
推進器 4軸
最大出力 20,663BHP
定格出力 16,000BHP
最大速力 21.232ノット
航海速力 19.0ノット
航続距離 13ノットで24,000海里
旅客定員 一等:239名
二等:96名
三等:504名
乗組員 330名
高さは米海軍識別表[7]より(フィート表記)。
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日英交換後、横浜に向け航海中の「龍田丸」。米潜水艦「キングフィッシュ」が撮影。1942年10月14日

龍田丸(たつたまる)は、日本郵船が保有していた貨客船[3]。「浅間丸」、「秩父丸」と姉妹船[8]。船名由来は龍田大社で、いずれの船も神社名にちなんだ命名であった。

概要

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浅間丸型客船の1隻として三菱重工業長崎造船所で建造され[9]1930年昭和5年)に就航[10]。姉妹船(浅間丸、秩父丸、龍田丸)は揃って北米航路に就航し、「太平洋の女王」と称された[10]。「龍田丸」は隔週で運行されていた北米航路用の船であった。主な寄港地は香港上海神戸横浜ホノルルロサンゼルスおよびサンフランシスコなど。

なお、日本海軍は浅間丸型3隻(浅間丸、秩父丸、龍田丸)を有事において航空母艦に改造することを想定していた[11][注釈 1]

太平洋戦争における「龍田丸」は、1942年(昭和17年)1月に徴傭され、兵員輸送船交換船として活動する。 1943年(昭和18年)2月8日[13]、駆逐艦「山雲」に護衛され横須賀からトラック泊地へ進出中[14]、米潜水艦の雷撃により御蔵島伊豆諸島)東方海域で撃沈された[3][15]

船歴

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就役まで

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第一次世界大戦後経営危機に陥っていた東洋汽船から、1926年(大正15年)サンフランシスコ航路を継承した日本郵船は同航路の旧型就航船刷新のため、浅間丸級大型定期客船3隻を建造した。「龍田丸」はその第3船である。「龍田丸」は三菱造船長崎造船所で建造された。船番は451[16]

「龍田丸」の総トン数16,955トン、全長178mで最大幅は22mで、航海速力は19ノットであった。当時三菱長崎造船所はスイススルザー社と技術提携しており、スルザー型ディーゼル機関搭載、総出力16,000馬力の条件で、8ST90型エンジン2基2軸と、それより小型の8ST68/100型エンジン4基4軸とが比較検討されたが、主機室天井高さが最大2層分低くできる後者が採用された[17]。なお「浅間丸」ではスルザー社製エンジンを輸入搭載したが、「龍田丸」では三菱長崎造船所製エンジンが搭載された[5][18]

前述のように[12]、日本海軍は有事において浅間丸級3隻を空母特設航空母艦)に改造することを想定していた[19][20]。 その場合、浅間丸級3隻(秩父丸、浅間丸、龍田丸)と駆逐艦「秋風」、「羽風」で第五航空戦隊を編成予定だった(昭和10年11月12日案)[21]。 海軍は逓信省を通じて浅間丸型の設計に関与し、特に前後部の船倉口は航空機用エレベーターを兼ねている[11][22]。また航空機や兵器の進化にあわせ、空母改造時の設計図は毎年更新されていたという[11][20]。 だが新田丸級貨客船(改造後は大鷹型航空母艦)や橿原丸級貨客船(改造後は隼鷹型航空母艦)とは異なり、浅間丸級は空母改造の「検討対象」であって空母改造を「前提とした」構造(設計)ではなかった[23]。 最終的に、本級3隻が空母に改造されることはなかった[24][25]。 本級用に開発されていた艤装は、新田丸級貨客船/大鷹型航空母艦3隻(新田丸〈冲鷹〉八幡丸〈雲鷹〉春日丸〈大鷹〉)の空母改装時に流用された[22]

「龍田丸」は1927年(昭和2年)12月3日に起工[16]1929年(昭和4年)4月12日に進水[16]1930年(昭和5年)3月15日に竣工[16][注釈 2]。同年4月25日に横浜からサンフランシスコに向けて処女航海に出発した[10]。1938年7月、「龍田丸」は太平洋横断100回を達成した[27]

日米関係悪化

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1941年7月26日、日本の南部仏印進駐に絡み、アメリカは日本資産の凍結を通告。このため、7月10日に横浜を出港し7月24日サンフランシスコ到着の予定で航行中であった「龍田丸」は、23日から洋上待機となり、7月30日になってようやくサンフランシスコに入港した[28]。ロサンゼルスとホノルルへの寄港は取りやめとなり、「龍田丸」はサンフランシスコで乗客全員と一部を除く貨物を降ろし、アスファルトなど1079トンと日本人引き揚げ客を乗せて8月4日に出港[29]。8月18日に横浜に着いた[30]。帰路では食中毒が発生し、9名の死者が出た[31]。その原因は卵の変質であった[31]。同船の乗客だった二階堂進(戦後、自由民主党副総裁)が中毒者の看護に奔走している[32]。当時、作家の宮本百合子がこのニュースについて「龍田丸の中毒事件」というエッセイを「家庭新聞」(8月21日号)に発表している[33]。以後、サンフランシスコ線各船は横浜待機となる[30]

9月から11月にかけ、引揚邦人輸送のため政府は各地へ船を派遣した[34]。「龍田丸」はホノルル、サンフランシスコ行きとなり、608人を乗せて10月15日に横浜を出港[35]。復航では860人を乗せて11月14日に横浜に戻った[36]。 折しも日本海軍の連合艦隊は真珠湾攻撃に特殊潜航艇甲標的」を投入する計画を立案しており、軍令部有泉龍之助中佐は、出撃隊員を「龍田丸」に乗せて真珠湾の事前偵察をおこなう意向を示した[37]松尾敬宇中尉と神田晃少尉の軍人2名が、龍田丸船員(見習い運転士)の立場で乗船した[38][注釈 3][注釈 4]。 また、外務省官吏に成りすました海軍士官1名と伝書史1名も乗船していた[40][注釈 5]

次の「龍田丸」の航海は、11月24日に横浜を出発し、12月7日前後にロサンゼルスへ入港する予定だった[41]。だが、この時点で日本政府・日本陸軍・日本海軍は12月8日の開戦を決定して準備を進めており、日米開戦と共に「龍田丸」がロサンゼルスで拿捕されるのは確実であった[41]大本営海軍部(軍令部)は、開戦日を秘匿するために「龍田丸」をあえて出港させることにする[41]。ただし11月24日出発ではなく12月2日に出発を遅らせ、さらに海軍省は木村庄平龍田丸船長に「12月8日零時に開封するように」との箱を渡した[41]。 12月2日午後1時、「龍田丸」は南米の観光団、英米の外交官、在日商館員、日系人の母国観光団などを乗せて横浜を出港する[41]。「龍田丸」の出港はアメリカのマスコミも大きく報道し、たとえばニューヨーク・タイムズは12月3日付記事で「日本がしばらくの間、何も行動を起こさない証拠」と論述した[42]ロサンゼルスを経由してパナマのバルボアへ向かう予定航路であったが、大圏コースの北太平洋上で日付変更線を越えた2度目の12月7日、日米開戦の報を受けて引き返し、12月15日(戦史叢書では12月14日着)[注釈 6]に横浜に帰港した[43][44]。上述のように、この航海は機動部隊による12月8日の真珠湾攻撃をカムフラージュするための航海であった[43]

太平洋戦争

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1942年(昭和17年)1月14日付で海軍に徴用され[45]横須賀鎮守府籍となる。1月27日より行動を開始する[46]。「龍田丸」は、メレヨン島南洋諸島ボルネオフィリピン方面の兵員輸送に従事した[44]

1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻を喪失。6月30日付海軍大臣決裁の空母増産計画(航空母艦増勢実行に関する件仰裁)で再び浅間丸級の空母改造案が浮上する[47]。この場合は浅間丸級固有のディーゼル機関を、駆逐艦用のタービン機関に換装する予定だった[47][48]。だが、いつしか立ち消えになってしまった[48]福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)によれば、鎌倉丸型各艦は大鷹型(八幡丸〈雲鷹〉、新田丸〈冲鷹〉)の空母改造が終了次第、逐次空母に改造する予定であったという[49]

同時期の「龍田丸」は、日英外交官交換船運航に投入されることになった。同年7月30日、454名の船客を乗せ横浜を出港する[50]。途中寄港の上海で324名、サイゴンで146名、シンガポールで4名を乗せ、計928名で当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地ロレンソ・マルケスに8月27日到着した[50][51]。ここで日本人外交官、民間人877名、タイ人42名の計919名を乗せ9月2日出港、途中シンガポールで日本人571名とタイ人42名下船し、外務省関係者6名が乗船した[50]。9月27日、「龍田丸」は横浜に帰着した[51]

同年10月24日より、船舶運営会仕様船となったが、11月7日に再度徴傭された[52]。12月よりフィリピンやシンガポールなど、東南アジア方面への輸送任務に従事した[53]

1943年(昭和18年)2月8日午後4時、「龍田丸」(船長木村庄平)は兵員・物資輸送任務のため、護衛の駆逐艦「山雲」と共に横須賀を出発[54]トラック島に向かった[注釈 7]。悪天候(夜間、風速20m)で航海中の同日22時15分[53][56]御蔵島東方約70km(北緯34度00分 東経140度00分 / 北緯34.000度 東経140.000度 / 34.000; 140.000)の地点でアメリカ潜水艦「ターポン」の雷撃を受ける[57]。夜間に加え現場の海域は強風下であったが[14]、「ターポン」はレーダーで「龍田丸」を探知して魚雷を発射した[58]。 爆発音2回を確認した「山雲」は「龍田丸」に接近[注釈 8]。「イカガセシヤ」と発光信号をおくったが、「龍田丸」からの応答はなかった[53][54]。「龍田丸」は22時37分に沈没し[14][59]、乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した[51][54]。乗船員は軍属が主体であるが、先立つ1942年5月にやはりアメリカ潜水艦に撃沈された大洋丸と同様に、占領地行政や産業・資源開発にあたるはずの有識者・技師等の人材を多数運んでいた船だったとされ、両船の沈没により有識者・技師が多数亡くなったことから、日本の占領地行政は2年遅れたと言われる[60]

「山雲」は爆雷投射を行いつつ[61]2月9日天明を待って捜索活動を開始した[59]。また「山雲」からの連絡で海軍館山航空隊から哨戒機一機が現場に急行、さらに横須賀鎮守府所属艦艇など数隻も沈没海域に急行して捜索を実施するが[62]、海面に重油が広がるのみで、龍田丸の手掛かりを得ることはできなかったという[54][63]。「山雲」が夜間とはいえ直ちに救助活動に当たらなかったことには、潜水艦に臆し護衛艦の本来の役割を放棄したような印象を受けたと思われる批判の声も戦後あがっている[64]。また、事件当夜、「山雲」艦長は横須賀鎮守府に龍田丸が短艇(救命艇)を降下した形跡も認められずとの電文報告を入れているが、この真偽についても海上遭難経験者からは、沈没の危険があれば直ちに救命艇の効果準備が行われるはずとして疑問の声が強い[64]

2月20日、「龍田丸」乗船中の軍属1名の遺体が収容された[53]。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市中央区)研究員の大井田孝による調査により2012年9月段階で殉難者氏名が船員全員を含めた665人まで判明したが残り816人が不明となっていた[65]。神奈川県大和市の蓮慶寺に殉難者慰霊のための五輪塔がある[66]

脚注

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注釈

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  1. ^ 昭和11年『御説明参考資料(2)』より [12](附)基地航空隊平時所要兵力六十五隊ヲ必要トスル理由 平時ノ基地航空兵力ヨリ戰時特設航空母艦以下ノ特設艦船ニ搭載ヲ要スベキ兵力ハ 一.大鯨級三隻 浅間丸級三隻 ニ對シ 計 艦上機 一三隊半/二.特設水上機母艦十七隻及特設巡洋艦四隻其他特務艦ニ對シ 水上機 計十九隊半 小計 三三隊(内大鯨級二隻ノ外 昭和十一年度戰時編制ニ依ル)/三.内戰部隊及外戰部隊中ノ局地作戰ニ充當セラルベキ艦上機及水上偵察機所要兵力 小計 三三隊(昭和十一年度戰時編制ニ依ル) 以下略 〕
  2. ^ 日本海軍の一部資料では、3月4日竣工とする[26]
  3. ^ 『氷川丸とその時代』194ページには商船学校の生徒に扮した、とある。
  4. ^ 松尾は伊22に乗艦して真珠湾に赴いている[39]
  5. ^ 『氷川丸とその時代』194ページには中佐1名が事務員に扮して乗船した、とある。
  6. ^ 『七十年史』287ページには「十四日夜横浜港外に帰着」とある。つまり、港外に14日夜着き、着岸は15日ということか?
  7. ^ 山雲の護衛は途中までの予定であった[55]
  8. ^ 『横須賀鎮守府戦時日誌』(昭和18年2月8日項)[59](八日)二三三一|山雲艦長|横鎮長官 海防指揮官|状況第一 一.二二一五頃三藏島ノ九二度四〇浬ニ於テ龍田丸左後方ヨリ(魚雷)二本ヲ受ケタルモノヽ如シ我敵影ヲ見ズ龍田丸ハ急ニ面舵ニ変針セルヲ以テ我近接状況聴取中應答ナク約十分ニシテ艦首ヲ立テ二三三七急激ニ沈没ス/二.我沈没地点周圍ヲ威嚇投射ヲ行ヒツツ掃蕩攻撃中生存者極メテ少キ見込ミ/三.西ノ風二十米乃至三十米波高ク小雨アリ視界不良夜間救助困難ニ付附近ヲ警戒掃蕩シツツ天明ヲ待ツテ救助セントス 〕

出典

[編集]
  1. ^ a b 龍田丸”. なつかしい日本の汽船. 長澤文雄. 2023年10月20日閲覧。
  2. ^ #日本郵船徴傭(2) p.39〔 徴傭船舶ノ事故ノ件通知 〕
  3. ^ a b c d 喪失船舶一覧表(2) p.7〔 昭和18年2月(1943年) |8|b|龍田丸|16,975|日本郵船|雷撃|伊豆猿島東方| 〕
  4. ^ 日米交換船・要目”. 大日本帝国海軍特設艦船データベース. 2023年10月20日閲覧。
  5. ^ a b 創業百年の長崎造船所p676 三菱造船株式会社1957
  6. ^ 藤田秀雄他 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦まで)-商船用内燃機関編(その5)-日本舶用機関学会誌31巻4号p223 1996
  7. ^ Asama_Maru_class
  8. ^ 日本特設艦船物語67頁(写真11、浅間丸解説)
  9. ^ #日本郵船徴傭(3) p.4〔 建造場所 三菱重工業株式會社長崎造船所 〕
  10. ^ a b c 氷川丸とその時代 88-89頁〔 太平洋の女王・浅間丸(姉妹船・秩父丸、龍田丸) 〕
  11. ^ a b c #日本空母物語 100-102頁〔 連合艦隊の戦力倍増策 〕
  12. ^ a b #S11御説明参考資料(2) pp.16-17
  13. ^ 城英一郎日記 241頁〔 (昭和18年)二月一一日(木)晴(略)八日夜、龍田丸御蔵島附近にて、敵船〔潜〕の為め沈没。〕
  14. ^ a b c #S18.02.01-02.17経過概要 p.13(1943年2月8日)〔 龍田丸ハ横須賀ヨリ「トラツク」ニ向ケ航行中二二一五御藏島ノE40′ニテ突如雷撃ヲ受ケ二二三七急激ニ沈没(龍田丸横鎮)|内地|山雲護衛中ナリシモ雨風二〇米海上波高ク小雨アリ救助作業意ノ如クナラズ、生存者殆ドナキ模様(人員約一,五〇〇名 糧食物糧三,五〇〇立方搭載) 〕
  15. ^ 氷川丸とその時代 281頁〔龍田丸遭難地点(×) 〕
  16. ^ a b c d 『創業百年の長崎造船所』543ページ
  17. ^ 稲垣長止郎他 浅間丸龍田丸機関部計画及び成績に就て 造船協会会報46号p56-80 1930
  18. ^ 藤田秀雄他 日本の艦艇・商船の内燃機関技術史(第2次世界大戦まで)-商船用内燃機関編(その5)-日本舶用機関学会誌31巻4号p222、223 1996
  19. ^ 日本特設艦船物語67頁(写真12、龍田丸解説)
  20. ^ a b 日本特設艦船物語 212-214頁〔 大型船の空母改造 〕
  21. ^ #S16年度海軍戦時編制案(昭和10年2月) p.2〔 外戰部隊|GF|1F|5Sf|特空母|秩父丸、浅間丸、龍田丸、秋風、羽風 〕
  22. ^ a b #日本空母物語 295頁〔 特設航空母艦の計画 〕
  23. ^ 幻の航空母艦 97-99頁〔 特設航空母艦「浅間丸」級 〕
  24. ^ 幻の航空母艦 99頁〔 第10表 特設航空母艦に改造が予定された日本の客船(貨客船)16隻一覧 〕
  25. ^ 日本特設艦船物語 80-81頁〔 ◇鎌倉丸型(参考) 〕
  26. ^ #日本郵船徴傭(3) p.4〔 竣工年月日 昭和五年参月四日 〕
  27. ^ 『七十年史』188ページ
  28. ^ 『七十年史』278-279ページ
  29. ^ 『氷川丸とその時代』190ページ、『七十年史』279ページ
  30. ^ a b 『七十年史』279ページ
  31. ^ a b 『氷川丸とその時代』190ページ
  32. ^ 日本経済新聞1986年1月15日朝刊最終面『私の履歴書』
  33. ^ 龍田丸の中毒事件 青空文庫所収
  34. ^ 『氷川丸とその時代』192-193ページ
  35. ^ 『七十年史』285-286ページ
  36. ^ 『七十年史』286ページ
  37. ^ 甲標的全史 2019, pp. 35–40真珠湾「港湾襲撃」への転換
  38. ^ 甲標的全史 2019, p. 40.
  39. ^ 甲標的全史 2019, p. 46.
  40. ^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, pp. 70–71.
  41. ^ a b c d e 戦史叢書35巻111-112頁「龍田丸の偽装航海」
  42. ^ バーガー、PEARL HARBOR 1984, pp. 124–125.
  43. ^ a b 氷川丸とその時代 195-197頁〔 龍田丸の囮航海 〕
  44. ^ a b 氷川丸とその時代 266-267頁
  45. ^ #S17.01横鎮日誌(3) p.24〔 (ロ)徴傭船舶ノ徴傭解傭 |發令日時:一月十四|船舶名:龍田丸|總噸數:一六,九七五|船主:日本郵船株式會社|徴(解):〃|授受地:横須賀|授受地到着(豫定)日時:一月十七日| 〕
  46. ^ #S17竜田丸行動 p.2〔 一七.一.二七|横須賀| |横須賀鎮守府|軍需品四二五〇屯 人員三九一六名 輸送 〕
  47. ^ a b 戦史叢書ミッドウェー海戦 629-630頁〔 五(略)(ロ)航空機運搬艦的ノ簡易ナル航空母艦ノ建造(商船改造)及淺間丸級三隻ノ改装問題(駆逐艦用機関使用)ニ関シテハ別途研究スルコトトス 〕
  48. ^ a b 幻の航空母艦108頁
  49. ^ 日本特設艦船物語 69-70頁〔 太平洋戦争中の日本の商船空母 〕(龍田丸の沈没日を2月2日とするが、誤記)
  50. ^ a b c 氷川丸とその時代 268-269頁〔 龍田丸とシティ・オブ・パリ号&エル・ニール号 〕
  51. ^ a b c 氷川丸とその時代 269-270頁〔 出会いと別れ 〕
  52. ^ #S17竜田丸行動 p.6〔 昭和一七|一一.七|徴傭 〕
  53. ^ a b c d 氷川丸とその時代 281-283頁〔 1 龍田丸の遭難 〕
  54. ^ a b c d 護衛艦艇物語 159-161頁〔「龍田丸」被雷、全員海没 〕
  55. ^ #S17.12横須賀防備戦隊日誌(7) p.15〔 (七日)一六四〇|海防指揮官|山雲艦長|信電令作第一二八号 一.龍田丸 明八日一五〇〇横須賀發南方ニ向フ/二.山雲ハ之ヲ北緯二十六度線迄直接護衛シタル後帰投スベシ 〕
  56. ^ S18.02経過概要(護衛対潜)p.3〔2月8日〕
  57. ^ 『日本郵船戦時船史 上』230ページ
  58. ^ NHK取材班『ドキュメント太平洋戦争1 大日本帝国のアキレス腱』角川書店、1993年
  59. ^ a b c #S17.12横須賀防備戦隊日誌(7) p.19
  60. ^ 松原 茂生、遠藤 昭『陸軍船舶戦争 -船舶は、今も昔も島国日本の命綱-』戦誌刊行会、1996年5月1日、218-220頁。 
  61. ^ #S17.12横須賀防備戦隊日誌(7) p.20〔 (九日)〇一〇八|山雲艦長|海防指揮官|状況第二 沈没地点ヲ中心トスル五浬乃至一〇浬県内ヲ高速ニテ捜索掃蕩セルモ手掛リナシ投射爆雷十八個我掃蕩ヲ續行セントス 〕
  62. ^ #S17.12横須賀防備戦隊日誌(7) pp.19-20(海防指揮官電令参照)
  63. ^ #S17.12横須賀防備戦隊日誌(7) p.21〔 (九日)〇七〇二|山雲艦長|海防指揮官|状況第三 (一)〇六三〇龍田丸沈没位置着直径約五浬ノ範囲ニ亘リ夥シキ重油浮流レアルモ其ノ他ノ浮流物ヲ認メズ昨夜遭難当時短艇ニテ避難セル模様ナシ/(二)未ダ敵潜ニ関シ手懸ナシ 〕
  64. ^ a b 『輸送船入門』(株)光人社、2003年11月13日、146-147頁。 
  65. ^ 【フォーカス瀬戸内】 戦没した船と海員の資料館・大井田さん/ 郵船「龍田丸」乗船者調査に協力を。816人の情報教えて。1481人中 665人が判明”. 日本海事新聞社. 2024年11月4日閲覧。
  66. ^ 慰霊五輪塔(蓮慶寺)”. デビット佐藤. 2024年11月4日閲覧。

参考文献

[編集]
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    • 『日本郵船(株)所有船 大東亜戦争時 海軍徴傭関係記録(3)』。Ref.C08050010800。 
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    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(2)』。Ref.C08050010000。 
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    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年2月』。Ref.C16120657800。 
    • 『昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5/18年2月1日~18年2月17日』。Ref.C16120635100。 
  • 雨倉孝之『海軍護衛艦コンボイ物語』光人社、2009年2月。ISBN 978-4-7698-1417-7 
  • 大内建二『護衛空母入門 その誕生と運用メカニズム』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 大内健二「第3章 計画で終わった航空母艦」『幻の航空母艦 主力母艦の陰に隠れた異色の艦艇』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年12月。ISBN 4-7698-2514-5 
  • 海人社『世界の艦船』2002年1月号 No.591
  • 海人社『世界の艦船 別冊 日本の客船[1] 1868-1945』1991年 ISBN 4-905551-38-2
  • 城英一郎著 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • 勝目純也「第一章 「甲標的」開発と真珠湾攻撃への道」『甲標的全史 “特殊潜航艇”から始まった知られざる戦い』イカロス出版株式会社、2019年11月。ISBN 978-4-8022-0796-6 
  • 船舶技術協会『船の科学』1981年2月号 第34巻第2号
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8 
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
  • 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
  • A・J・バーガー 著、中野五郎 訳『PEARL HARBOR パールハーバー われ奇襲に成功せり』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫2〉、1984年12月。 
  • 福井静夫 著「第三章 特設航空母艦」、阿部安雄・戸高一成/編集委員 編『福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本特設艦船物語』 第11巻、光人社、2001年4月。ISBN 4-7698-0998-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで戦史叢書第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 戦史叢書第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 郵船OB氷川丸研究会(編)『氷川丸とその時代』海文堂出版株式会社、2008年2月。ISBN 978-4-303-63445-2 
  • 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
  • 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年

外部リンク

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