藤原師成
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 寛弘6年(1009年) |
死没 | 永保元年9月1日(1081年10月5日) |
官位 | 正二位、参議 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 藤原北家小一条流 |
父母 | 父:藤原通任、母:藤原永頼の娘 |
妻 | 藤原定成の娘 |
子 | 師季、済尋、成耀 |
藤原 師成(ふじわら の もろなり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家小一条流、権中納言・藤原通任の長男。官位は正二位・参議。
経歴
[編集]後一条朝の寛仁5年(1021年)叙爵(従五位下)し、美濃権守に任官する。万寿元年(1024年)侍従に遷ると、右兵衛佐を経て、万寿5年(1028年)従五位上・左近衛少将に叙任された。長元4年(1031年)正五位下に昇叙されるが、長元6年(1033年)従四位下に叙せられて、少将を解かれたとみられる。
その後しばらく任官状況ははっきりしないが、後朱雀朝に入ると長暦2年(1038年)従四位上、長久2年(1041年)正四位下と昇進し、長久3年(1042年)兵部権大輔に任ぜられている。
寛徳2年(1045年)後冷泉天皇が践祚すると、師成は備中守に遷り、天喜4年(1056年)丹後守、康平5年(1062年)近江守と後冷泉朝では受領を歴任。康平6年(1063年)2月に太宰大弐に任ぜられると、同年7月に従三位の叙位を受けて公卿に列し、8月には九州への赴任を賞されて正三位に昇叙されている。
治暦3年(1067年)まで大弐を務め、翌治暦4年(1068年)正月に成功により従二位に叙せられる。同年4月に後冷泉天皇が重態に陥る中で藤原歓子が皇后に冊立されると、師成は皇后宮権大夫に任ぜられた。
後三条朝では昇進の機会がなかったが、白河朝に入ると延久5年(1073年)正二位、承保2年(1075年)参議に叙任されている。
承暦4年(1080年)10月に官職を辞し官界から退く。永保元年(1081年)7月28日に腰の熱物に対して灸治を行っているが[1]、治療の甲斐なく8月5日に出家し、9月1日薨去。享年73。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 寛仁5年(1021年) 正月7日:従五位下(皇后宮御給)。正月?:美濃権守[2]
- 万寿元年(1024年) 10月17日:侍従
- 万寿3年(1026年) 11月27日:右兵衛佐
- 万寿5年(1028年) 2月19日:従五位上(佐労)、左近衛少将
- 長元2年(1029年) 正月24日:兼伊予権介
- 長元4年(1031年) 2月17日:兼加賀権守(受領、小一條院分)[3]。11月19日:正五位下(少将労、朔旦)
- 長元6年(1033年) 正月7日:従四位下(少将労)、止少将?[4]
- 長暦2年(1038年) 正月20日:従四位上(加賀治国)
- 長久2年(1041年) 12月19日:正四位下(行幸内大臣二條家家賞)
- 長久3年(1042年) 10月27日:兵部権大輔
- 寛徳2年(1045年) 4月26日:備中守(任中公文一)[5]
- 永承4年(1049年) 2月5日:去守
- 天喜4年(1056年) 10月29日:丹後守
- 康平3年(1060年) 2月25日:去守
- 康平5年(1062年) 正月30日:近江守(丹後功)
- 康平6年(1063年) 2月27日:太宰大弐。7月26日:従三位(永承大嘗会主基)。8月19日:正三位(赴任賞)
- 治暦3年(1067年) 2月12日:辞大弐
- 治暦4年(1068年) 正月7日:従二位(造天台御願実相院賞)。4月17日:皇后宮権大夫(皇后・藤原歓子)
- 延久5年(1073年) 4月30日:正二位(行幸院賞、関白譲)
- 承保2年(1075年) 12月15日:参議、皇太后宮権大夫如元
- 承暦元年(1077年) 日付不詳:見兼近江権守
- 承暦4年(1080年) 10月:致仕
- 永保元年(1081年) 8月5日:出家。9月1日:薨去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。