劉闡
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劉闡 | |
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呉 御史中丞 | |
出生 |
生年不詳 荊州江夏郡竟陵県 |
拼音 | liú chǎn |
主君 | 劉璋→劉備→孫権 |
劉 闡(りゅう せん)は、中国の後漢末期、及び三国時代の呉の政治家。一名は劉緯。本貫は荊州江夏郡竟陵県[1]。
生涯
[編集]益州牧劉璋の次子。建安19年(214年)[2]、劉璋が劉備に降伏した後、共に荊州の公安県に移住する。
建安24年12月(220年年始)[3]、孫権が劉備配下の関羽を殺害し、荊州を制圧すると、また父と共に孫権に帰順する。
呉の黄武2年(223年)[4]、益州南部で雍闓が蜀漢から離反し、呉に与すると、劉闡は孫権から益州刺史に任じられ、交州と益州の州境に赴任する。その雍闓の乱が諸葛亮によって平定されると、劉闡は呉に召還され、御史中丞に任じられた。
後に病気のため、自宅にて死去した。その人となりは慎み深く、財を軽んじ、義を尊び、仁譲の風があったと言われる。
出典
[編集]- 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 劉璋伝 s:zh:三國志/卷31#劉璋
脚注
[編集]- ^ 『三国志』蜀書 劉焉伝記載、祖父の劉焉の本貫。s:zh:三國志/卷31#劉焉
- ^ 司馬光『資治通鑑』漢紀59 s:zh:資治通鑑/卷067
- ^ 『資治通鑑』漢紀60 s:zh:資治通鑑/卷068#孝獻皇帝癸建安二十四年(己亥,西元二一九年)
- ^ 『資治通鑑』魏紀2 s:zh:資治通鑑/卷070#黃初四年(癸卯,西元二二三年)