中川宇右衛門
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時代 | 江戸時代後期 - 末期 |
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生誕 | 文化2年(1805年) |
死没 | 慶応元年閏5月30日(1865年7月22日) |
別名 | 徳以(諱)、登人 |
主君 | 毛利斉熙 → 斉元 → 斉広 → 敬親 |
藩 | 長州藩士 |
氏族 | 三善氏流中川氏 |
中川 宇右衛門(なかがわ うえもん)は、江戸時代幕末の武士・長州藩士。諱は徳以。
来歴
[編集]長州藩の上士である大組の家に生まれ、禄高は100石だった。嘉永6年(1853年)黒船来航に際して長州藩は相模国周辺の警備を命じられるが、当時用所役だった宇右衛門もそれに参加。その後も遠近方・倉元両人役・矢倉頭人を歴任するなど、万延元年(1860年)まで藩の財務に深く携わった。椋梨藤太らを代表とするいわゆる俗論派に近く、文久3年(1863年)八月十八日の政変で長州藩が京都での影響力を失うと、椋梨らと藩政を批判した。そのため隠居処分を下されるが、元治元年(1864年)第一次長州征討が起きると遠近方として復帰し、藩政から正義派を駆逐するなどした。しかしながら慶応元年(1865年)1月、藩政を再び正義派が握ると再び罷免され、その年の閏5月に野山獄で自害を命じられた。