[go: up one dir, main page]

コンテンツにスキップ

中島知久平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中島 知久平
なかじま ちくへい
生年月日 1884年1月1日
出生地 日本の旗 日本 群馬県新田郡尾島村
(現太田市
没年月日 (1949-10-29) 1949年10月29日(65歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都北多摩郡三鷹町
出身校 海軍大学校
海軍兵学校機関科
前職 実業家
所属政党立憲政友会→)
(無所属→)
翼賛政治体制協議会→)
翼賛政治会→)
大日本政治会→)
無所属
称号 海軍大尉[1]
正三位[1][2]
勲一等[2][3]
配偶者 なし
親族 父・中島粂吉(または条吉)
母・いつ
庶子[4]中島源太郎(衆議院議員)
孫・中島洋次郎(衆議院議員)
弟・中島喜代一(中島飛行機社長)、中島門吉、中島乙未平(富士産業社長)、中島忠平

日本の旗 第25代 商工大臣
内閣 東久邇宮内閣
在任期間 1945年8月26日 - 1945年10月9日

日本の旗 第5代 軍需大臣
内閣 東久邇宮内閣
在任期間 1945年8月17日 - 1945年8月26日

日本の旗 第15代 鉄道大臣
内閣 第1次近衛内閣
在任期間 1937年6月4日 - 1939年1月5日

選挙区 群馬県第1区
当選回数 5回
在任期間 1930年2月21日 - 1945年12月18日

在任期間 1939年4月30日 - 1940年7月30日
テンプレートを表示
太田市尾島庁舎に建つ中島知久平の像

中島 知久平(なかじま ちくへい、明治17年(1884年1月1日 - 昭和24年(1949年10月29日)は、日本海軍軍人実業家政治家中島飛行機(のちに富士産業、富士重工業を経て、現在のSUBARU)の創始者として知られ、政治家に転じてからは大臣や立憲政友会総裁を務めた。

生涯

[編集]

1884年明治17年)1月1日群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町2005年3月27日までは群馬県新田郡尾島町大字押切)の農家中島粂吉と母いつの長男として生まれた。 明治31年(1898年3月、尾島尋常高等小学校卒業。 明治36年(1903年)10月、海軍機関学校入学(第15期生)。 明治40年(1907年4月25日、海軍機関学校卒業。 明治41年(1908年1月16日、海軍機関少尉に任官。 明治42年(1909年10月11日、海軍機関中尉に任官。

1911年(明治44年)4月、中尉であった中島は、近い将来、飛行機から魚雷投下をして軍艦を沈めるという予言をした[5]。翌1912年にはアメリカに派遣され、飛行術・機体整備を学び、1914年大正3年)にはフランスに出張し、飛行機の制作技術を会得する[5]。その後、偵察機の研究を重視していた海軍航空技術委員会に、魚雷発射用の飛行機の開発をするべきとの意見書を提出したという[5]1915年(大正4年)、独自の魚雷発射機の設計を発表[5]

1916年(大正5年)中島機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを大西瀧治郎中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した[6]。 大正6年(1917年12月1日、既に同年5月には「飛行機研究所」(のちの中島飛行機株式会社)を群馬県尾島町に創設していた中島は海軍の中途退役を認められ予備役編入[注釈 1][1]、同年12月10日に兄弟で「飛行機研究所」を群馬県太田町に移転した[7]

その後立憲政友会所属の代議士となり豊富な資金力で党中枢へ登り、新官僚や軍部寄りの革新派を形成して勢力を伸ばした。国政研究会(昭和6年~15年)や国家経済研究所(昭和7年~18年)を設立して学者を招致し、国内外の政治経済状況を調査研究させた。昭和14年(1939年3月28日には革新同盟という団体を結成して中島の総裁就任を推進した。分裂した政友会中島派の総裁に就任したが、これは長年の間政友会を支配した鈴木・鳩山派への反感から来る周囲の勧めによるものであり、自ら進んでのものではなかった。

アメリカの国力を知るところから、当初は日米開戦には消極的だったが、開戦後は「米軍の大型爆撃機が量産に入れば日本は焼け野原になる」と連戦連勝の日本軍部を批判し、ガダルカナルの争奪戦では日本の敗戦を予想して、敗勢挽回策としてZ飛行機(いわゆる「富嶽」)を提言するが44年まで無視され、時期に遅れて計画は放棄された。

近衛内閣では鉄道大臣を務め、昭和13年(1938年12月2日に鉄道幹線調査分科会をつくり、同年には海底トンネルのための地質調査も始めさせ、その大陸連絡構想は戦後の新幹線に影響を与えた。その組閣3ヶ月後発足した「大政翼賛会」は幕府的、ファッショ的で立憲政治を侵すとして、強力な政党を作ろうとしたが、終戦まで果たせなかった。

昭和20年(1945年8月17日東久邇宮内閣で軍需相、軍需省廃止で8月20日商工相。同年、元立憲民政党総裁の町田忠治に呼び掛けて新党の設立を計画するが、GHQによりA級戦犯に指定の情報(指定は12月2日)で中止。それ以前の11月26日に院内会派の無所属倶楽部の結成に参加[8]。翌昭和21年(1946年公職追放となる[注釈 2]

昭和22年(1947年)A級戦犯指定解除。

昭和23年(1948年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に多田武雄椎名悦三郎とともに証人喚問された[10]

昭和24年(1949年10月29日脳出血のため三鷹町の自宅で急死。65歳没。墓所は多磨霊園、のちに太田市徳性寺にも分骨された。

略歴

[編集]

家族・親族

[編集]
旧中島家住宅
ウィキメディア・コモンズには、旧中島家住宅(太田市中島知久平邸地域交流センター)に関するカテゴリがあります。

中島家

[編集]

群馬県新田郡尾島村(現太田市)、東京都

知久平は生涯正妻を娶らなかったが[4]、身の回りの世話をした女性との間に生まれた庶子2人を長女と長男として自分の籍に入れた[4]。元自由民主党代議士で元文部大臣中島源太郎は長男として入籍した庶子であり[4]、元日本放送協会職員で元自由民主党代議士の中島洋次郎は孫である。
  • 父・粂吉[12]農業
  • 母・いつ(群馬、久保田幸吉二女[12]
慶應元年3月生[12]
  • 妹・あや[12]
  • 養妹・せい(群馬、松本眞三郎妹、群馬県人山本寅蔵に嫁す[12]
  • 弟・喜代一(きよかず)
明治23年(1890年)生まれ[13]
中島商事(中島飛行機会社で使用する材料物品の購買部門)、中島航空金属(航空発動機の原材料鋳鍛造)各社長[14]。商船学校航海科卒[13]
  • 弟・門吉(かどきち)
明治26年生まれ[14]
岩戸鉱山、千歳鉱山、中島商事各社長[14]
  • 弟・乙未平(きみへい)
明治28年(1895年)生 - 没年不詳
  • 弟・忠平(ただへい)[12]
昭和4年(1929年)2月生 - 平成4年(1992年)2月没
元映画プロデューサー。父親の地盤から立候補し、文部大臣を務めた
昭和34年(1959年)7月生 - 平成13年(2001年)1月没
源太郎の二男。元NHK職員。父親急死により地盤を受け継ぎ立候補、汚職事件で有罪判決を受け、控訴中に自殺した

中島知久平邸

[編集]
  • 中島知久平自邸(東京都市ヶ谷加賀町) - 子爵邸などの邸宅が並ぶ中でもひときわ大きい豪邸で、庭で飼っていたライオンが逃げる騒動もあった[15]
  • 同自邸(目黒区駒場4丁目) - 元前田利為侯爵邸。利為死去により1944年に中島が取得し本社としたが、戦後GHQに接収され、現在は目黒区立駒場公園。1956年に土地と洋館は長男の中島源太郎の所有となり(和館は国所有)、1964年に東京都に売却[16]。公園南にも中島家の邸宅があり、孫の中島洋次郎らが暮らした。
  • 旧中島家住宅(群馬県太田市) - 中島が両親のために造った家。現在は太田市中島知久平邸地域交流センター。
  • 泰山荘(三鷹市大沢) - 中島飛行機三鷹研究所敷地内にあった晩年の住まい。1936年に日産コンツェルン幹部・山田敬亮の別荘として建設され、1940年に中島が取得。現在は国際基督教大学敷地内となり、学園祭開催中のみ一般公開される。国の登録有形文化財。

伝記

[編集]
  • 渡部一英『日本の飛行機王 中島知久平 日本航空界の一大先覚者の生涯』(光人社NF文庫、1997年) ISBN 4-7698-2158-1 鳳文書林 1955年初版
  • 豊田穣『飛行機王・中島知久平』
講談社、1989年) ISBN 4-06-204381-5
講談社文庫、1992年) ISBN 4-06-185258-2

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお、海軍の機関科は太平洋戦争大東亜戦争)中に「機関科問題」を経て兵科に統合されたので、中島の最終階級は予備役編入後20年以上を経て、「海軍機関大尉」から「海軍大尉」となっていた。
  2. ^ 公職追放の該当事項は「軍需相中島飛行機社長」[9]

出典

[編集]
  1. ^ a b c アジア歴史資料センター 「任商工大臣 海軍大尉正三位勲二等 中島知久平」
  2. ^ a b 渋沢社史データベース 「富士重工業(株)『富士重工業三十年史』(1984.07)」 12頁
  3. ^ アジア歴史資料センター 「商工大臣中島知久平外四名勲等進叙」
  4. ^ a b c d 中島知久平をめぐる逸話 3
  5. ^ a b c d 日本傑作機開発ドキュメント 設計者の証言 上. 酣燈社. (1994-08-05). p. 241 
  6. ^ 草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫
  7. ^ a b c 渋沢社史データベース 「富士重工業(株)『富士重工業三十年史』(1984.07)」 1頁
  8. ^ 中谷武世 著 『戦時議会史』 民族と政治社、(昭和49年)、538-539頁。
  9. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、405頁。NDLJP:1276156 
  10. ^ 第3回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第6号 昭和23年10月19日
  11. ^ 渋沢社史データベース 「富士重工業(株)『富士重工業三十年史』(1984.07)」 2頁
  12. ^ a b c d e f 『人事興信録. 第11版』下(昭和12年)ナ六三
  13. ^ a b 中島喜代一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  14. ^ a b c 第 109 話<A 級戦犯容疑>の要約と参考資料特定非営利活動法人 アジア砒素ネットワーク
  15. ^ 『そして、風が走り抜けて行った - ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯』植田紗加栄、講談社、1997年、p86
  16. ^ 旧前田家本邸の歴史東京都教育庁地域教育支援部生涯学習課

関連項目

[編集]
  • 富嶽 - 知久平個人が立案した「必勝防空計画」が発端。

外部リンク

[編集]
公職
先代
中島知久平
(軍需省から再設置)
日本の旗 商工大臣
第26代:1945 - 1945
次代
小笠原三九郎
先代
豊田貞次郎
日本の旗 軍需大臣
第5代:1945 - 1945
次代
中島知久平
(商工省へ復帰)
先代
伍堂卓雄
日本の旗 鉄道大臣
第15代:1937 - 1939
次代
前田米蔵
党職
先代
(立憲政友会総裁代行委員)
鳩山一郎
前田米蔵
島田俊雄
中島知久平
立憲政友会(革新派・中島派)総裁
1939 – 1940
次代
(解党)
先代
鈴木喜三郎(立憲政友会総裁)
立憲政友会(正統派・久原派)総裁代行委員
1937 – 1939
次代
(立憲政友会総裁(革新派・中島派))
中島知久平
(立憲政友会(正統派・久原派)総裁代行委員)
久原房之助
三土忠造
芳澤謙吉