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景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物 ( ) ︵岩井俊平 訳︶ ジュリア・ショー チーのほぼ一〇キロ圏内に存在しており︵図 ︶︑最初はアレクサンダー・カニンガムの著名な著作﹃ビルサー塔群︵ The ル サ ー 塔 群 ﹄ で は︑ ボ ー ジ ュ プ ル と い う 名 称 で 言 及 さ れ て い る ︺ ︑アンデールという四つの保存状態の良い仏教遺跡がサーン ﹃ビ から後一二世紀まで途切れなく造営活動が続いていた︒他にも︑ソーナーリ︑サトダーラ︑モーレル・フルド︹訳註: インドでもっとも良く保存され︑そしてもっとも研究されている仏教遺跡であり︵特に Marshall 1940を参照︶︑前三世紀 インド中央部︑マディヤ・プラデーシュ州のサーンチー地域は︑仏教考古学の要地を占めている︒サーンチー自身は︑ はじめに ̶サーンチー地域における型式学的・空間的・時間的パターン ̶ 1 と 呼 称 ︶ に お い て 筆 者 が 新 た な 調 査 の た め に 取 り 上 げ た が︑ 後 述 す る よ う に こ の 調 査 で Sutcliffe 2001; 2003; 2005; Shaw et al. 2007︶ ︒サーンチーにおける最初期のモニュメントは︑前三世紀のマウリヤ朝のアショー は︑考古学的遺跡とともにさらに三〇か所の仏教遺跡が記録される結果となった︵ Shaw 2004a; 2004b; 2005; 2007; Shaw and Survey Project︑ 以 下 で は Bhilsa Topes︶ ﹄︵ Cunningham 1854︶において詳しく報告された︒これらの諸遺跡は︑サーンチー調査プロジェクト︵ Sanchi 1 カ王による仏教庇護と関係しているのに対し︑もっとも多くの建設が行われたのはそれに続く二世紀間であった︒奉献 127 S S P 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 図 1 サーンチー調査プロジェクトの研究地域における「ビルサー塔群」の諸遺跡(太字)および関連遺跡(仏教遺跡、集落跡、ダム) を示した地図 碑文によれば︑この造営活動は以前のように国家の庇護によるのではなく︑有力な一族やギルド︵職業組合︶が支える 共同の庇護という広範な計画によって資金提供を受けていたことがわかる︒サーンチー第二塔および他の四つの﹁ビル サー塔群﹂の遺跡から出土したいくつかの舎利容器の銘文が︑これらの諸遺跡と周辺の景観が古代においてどのように 了解されていたのかを評価するための有益なスタート地点を提供してくれる︵ Willis 2000︶︒銘文が示すのは︑これら諸 遺跡がすべて︑ゴティプタという名の個人が率いる雪山部の導師たちの集団と関係していた︑ということである︒雪山 部の人々は︑前二世紀にヴィディシャーに到着したと思われる︒彼らは︑サーンチーおよびサトダーラの古くからあっ たストゥーパや僧院を引き継ぐとともに︑ソーナーリ︑モーレル・フルド︑そしてアンデールに新たな中心地を創建し た︒舎利容器の銘文は︑これらの遺跡が単一の布教活動に関連して創建︵サーンチーとサトダーラに関しては修復︶された ことを示している︒ しかし︑これらの遺跡における美術史学的・碑銘学的な研究が充実しているにもかかわらず︑この地域の仏教史に 関しては多くの問題が未解決のままである︒例えば︑新たにこの地にやってきた僧団は︑なぜ丘陵の上を選択してス トゥーパや僧院を建設したのか︑それらの場所は互いにどのように関係していたのか︑他の仏教・非仏教の儀礼を行う 中心地やごく近隣にある定住集落とはどう関係していたのか︑といったことである︒これらの疑問は︑最近まで検討さ れることがなかった︒なぜなら︑当該地域における主要な仏教遺跡について︑その全体的な考古学的状況に関する情報 が不足していたからである︒儀礼的・社会的な景観は︑近年までインドの宗教を研究する学者たち︵考古学者も︑他分野 ︵ ︶ の学者も同様である︶から無視されてきた︒彼らは単独の︵そして特に宗教的な︶遺跡やモニュメントの建築的価値を取り 扱う傾向があるが︑それらは広大な考古学的景観からは分離して観察されるものなのである︒これを踏まえれば︑サー ︵ ︶ ンチーの広大な考古学的景観が十分に注意を引いてこなかったことは驚くに値しない︒さらに離れた場所にある﹁ビル サー塔群﹂の諸遺跡も同様で︑カニンガムの研究以降︑最近まではおおむね無視されてきた︒本稿の主な論点を述べる 129 2 3 と︑これらの遺跡の儀礼的・社会的重要性は︑それを広範な社会的・儀礼的・経済的景観の相互関係として把握するこ とで︑もっと明確に理解されうる︑ということである︒ 本研究は︑考古学における最近の理論的転換を考慮に入れた手法が必要である︒この理論的転換は︑景観全体を考古 学的な問いの焦点として認識することにとりわけ繋がっている︒儀礼に関連した遺跡を広範な社会・政治的環境の中に 位置づけることの重要性は︑ヨーロッパ考古学において主要な関心事になってきており︑ウェセックスのモニュメント に関連して述べられた以下の言葉は︑サーンチーの聖なる景観の研究に対しても同じように適用可能である︒ ﹁景観考 古学は︑遺跡間の系統的関係性の研究を伴っており︑実際そのように実践されている︒︵中略︶一方で時空間の全体像と いうものは︑景観を通じた人々の日常的な行動と関係しており︑彼らが接触することとなった現場によって構成されて ︵ ︶ いるのである﹂︵ Bradley et al. 1991: 7-8︶︒この認識はまた︑聖と俗との間にある伝統的な対立を打破するための︑考古学 ︶ 5 ︶ 6 ︶ 7 ︶ 教的な文脈︵すなわち︑それらが﹁人間によって造られ︑使用され︑経験される﹂方法︶の中で観察することによって︑その象 ンカのストゥーパに直接的な宇宙論的関連を発見することはできないかもしれないのに︑考古学的建造物をより広い宗 で︑この議論はその証拠の本質部分を無視している︒ルエリウス︵ Ruelius 1980: 272︶が指摘するとおり︑我々はスリラ トゥーパを動的な状況の中で観察するのではなく︑問いを静的な建築的・文献的カテゴリーのみに限定してしまうこと 築に関する多くの伝統を踏まえたうえで︑ストゥーパは宇宙論的象徴を体現しているかどうか︑という議論である︒ス 研究が︑現象学的な関心を取り入れることに失敗しているのである︒このことを例示するのが︑インドにおける宗教建 ︵ してきた︵ Singh 1996; Willis 2000︶︒しかし︑こうした多様なアプローチにもかかわらず︑ストゥーパに関するたいていの 加えて︑さまざまな碑文︑特に舎利容器に関連した碑文が︑ストゥーパが持つ広範な社会的・歴史的文脈を明るみに出 は実際に優位を占めてきた︒その建築的・芸術的・象徴的様相は︑すべて広範囲にわたって議論されてきたのである︒ ︵ ストゥーパそのものに関しては︑これが優れて学術的な注目の的であったため︑南アジア建築に関する著述において そこから引き出される文献・碑文・美術史学的証拠が豊富であることのおかげである︒ ︵ 遺跡の確かな空間的動態を提示することがさらに可能である︒それは︑モニュメントの状態が比較的整っていることと︑ 多くの考古学的な状況においては︑これは楽観的な憶測程度のものに過ぎないが︑中インドにおいては︑ストゥーパ 祀られる神格の重要性を減じることになる︒必要とされているのは︑ ﹁歴史的現象学﹂なのである︵例えば Thomas 1991︶︒ 力のある歴史的主体よりも︑むしろ一般化された実態のない行為者を作り出す傾向があり︑このことは︑特定の地点に 歴史への無関心は︑具体的な建造物の意味を徐々に弱めていく可能性もあるだろう︒また現象学的アプローチは︑説得 きたとおり︑現象学的なアプローチは歴史に対して無関心となる傾向があるため︑種々の点で欠陥がある︒そのような ローチは︑中インドのストゥーパ遺跡において効果的に展開することが可能である︒しかしながらこれまで認識されて 論においては総じて取り扱われてきたテーマである︵ Miller and Tilley 1984; Barrett 1989︶︒こうしたすべての革新的なアプ 間モデルで表されるように︶単純だ︑ということを示唆しているわけではなく︑多声性と抵抗の問題についても考古学理 想的な秩序を維持するのに役立つのかを考察しようとするものであった︒これは︑建築と思想との関係が︵規範的な空 の研究は︑儀礼が行われる場所の物理的な配置が︑特に視界と身体活動の管理・制限を通じて︑どのように行動的・思 重点を置いており︑初期の構造主義者が構築環境の固有かつ本質的な意味に執着していたのとは対照的である︒これら バレット︵ Barrett 1989; 1990; 1994︶とブラッドレイ︵ Bradley 1991︶の﹁行動の考古学﹂は︑人々と建造物群の相互関係に 合うための経験的な︵そしてしばしば非視覚的な︶方法を抑制してしまうのである︵ Thomas 1991: 30; Tilley 1994など︶︒例えば︑ 研究の重要性がさらに高まったのは静的な視覚表象に対する反動で︑この種の表象は︑人々が自身の周辺環境と関わり は静的であり生活の場に影響を及ぼすものではない︑という誤った印象を残してしまったからである︒ストゥーパ遺跡 ︵ しば永続してきた︒なぜなら︑研究の焦点が有名かつ考古学的に視認可能な遺跡に限定された結果として︑宗教的実践 および人類学における広範な活動の一部でもあった︵ Asad 1979; Evans 1985︶︒聖と俗の区別は︑考古学の範囲内ではしば 4 130 131 8 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 徴的意味を理解するしかないのである︒この問題は︑ストゥーパに奉納された舎利とその周囲を回る儀礼の性質を探究 したショペン︵ Schopen 1997︶とトレイナー︵ Trainor 1997: 55︶によって︑︵おそらく同時に︶いくらか是正された︒彼らの 研究は︑舎利崇拝が仏教の在家信者だけに限られた関心事であったという考え︵ある程度は︑プロテスタントに影響された ︵ ︶ 歴史分析の産物だった︶を払拭するのに役立った︒さらにトレイナー︵ Trainor 1996︶は︑人々が周囲を回り︑そのさまざ ︵ ︶ らの脱却を先導することを誇りとしている︒トレイナーの言葉︵ Trainor 1997: 61︶によれば︑考古学は﹁ 「人々がすべきこと」 ショペンもトレイナーも︑仏教学における文献研究の伝統から登場しており︑この分野における伝統的な文献偏重か まな部分を﹁読む﹂流儀を形成することを︑モニュメントが﹁儀礼化の力﹂を通して可能にする方法を議論している︒ 9 ︶ 一 サーンチー調査プロジェクト︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ 物それ自体を超えて︑過去の人々が彼らの周辺環境と反応し相互作用したその方法の﹁身体的﹂評価を試みるのである︒ 13 ものを用いて︑文献や碑文から収集され得るものを応用するのである︒私が思い描く問いは︑聖典の記述や考古学的遺 らのモニュメントを現象学的な角度から見る必要があると主張したい︒すなわち︑特定の場所の地面から発見され得る きしてしまうことを意味する︒ストゥーパに関して為されてきた研究の重要性と利便性を承知したうえで︑筆者はこれ 究と︑文献に基づいた分析との間の連携が欠如することは︑仏教史において一般的に受け入れられているモデルが独り歩 ており︵ Patrik 1985; Tilley 1991︶︑そうした動向に対する自覚が概して欠如しているのである︒さらに︑活発な考古学的研 12 である︒考古学における近年の理論的動向は︑とりわけ考古学的記録それ自身をテキストと見なすことも可能だと認め ︵ ストとしての文字資料と︑ ﹁化石﹂としての考古学的記録という古典的対立を恒久化させるという点では問題︵かつ皮肉︶ とは対照的に︑ 「彼らが実際に為したこと」についての見通しを提供する﹂のである︒この自覚は称賛に値するが︑テキ 10 仏教に関連する丘陵上の遺跡 ̶建築の型式学 ̶ ︵ ︶ ︵ Cunningham 1854︶における建築の型式分類によって与えられた︒サーンチーのストゥーパ群は︑以 の﹁ビルサー塔群﹂ で新たに記録された仏教遺跡を評価するための基本的な枠組みは︑サーンチー︵ Marshall 1940︶および他の四つ ストゥーパ 二 して﹁ビルサー塔群﹂の諸遺跡に集中するが︑新たに記録された遺跡のいくつかについても︑比較の際には言及する︒ 14 手段としても︑ストゥーパのしかるべき配置場所を決定する際の有力要因であったと主張することになる︒議論は主と 集中的に論ずる︒筆者は︑ストゥーパの視覚的な存在感を最大化することが︑改宗のメカニズムとしても聖遺物を守る 複数の遺跡間および一つの遺跡内という双方︑言い換えれば景観レベルにおける︑ストゥーパの空間的方向性について トゥーパを中心とした各種遺構の複合体︶に関するものである︒最初にこれら諸遺跡の主要な構成要素をまとめたうえで︑ 本論は︑そのデータセットのうちの一つの構成要素︑特に仏教に関連した丘陵上のストゥーパ・コンプレックス︵ス ついての仮説︑などである︵ Shaw 2004a; 2004b; 2005; 2007; Shaw and Sutcliffe 2001; 2003; 2005; Shaw et al. 2007︶︒ まな宗教的伝統の関係についての仮説や︑新宗教の伝播と都市化や農業・食習慣の変化といった広範な過程との関係に 実証的な基準を提供することとなったのである︒すなわち︑西暦紀元前の最後の何世紀かにおける︑当該地域のさまざ および彫刻の断片が記録された︒これらを総合的に取り上げることで︑このデータは次のような仮説を検証するための の定住集落跡︑一七か所の古代のダム︑そしてバラモン教︑ジャイナ教︑仏教の伝統に由来する一〇〇〇個以上の祠堂 された︒集中調査と広域調査とを何シーズンかにわたって行った結果︑三〇か所の﹁新たな﹂仏教遺跡と︑一四五か所 は︑サーンチーの考古学的景観に関する知見についてのこうしたギャップを埋めるために︑一九九八年に開始 S S P 132 133 11 S S P S S P 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 図 2 サーンチー地域における仏教遺跡の基本的な構成要素:僧院的な居住址、ストゥーパ、要塞的な要素 下の四つの主要な形態的・年代的グループに分類することが可能である︒⑴マウリヤ型式︵ Phase I︶:第一塔の核となっ ているレンガ造りのストゥーパを指標とし︑サトダーラ第一塔とほぼ併行する︵ Agrawal 1997; Shaw 2007︶︒⑵ポスト・マ ウリヤ型式︵ Phase II︶:第二・第三塔を指標とし︑よく似た例はソーナーリ︑サトダーラ︑モーレル・フルド︑アンデール にもある︒これらは︑しばしば彫刻の施された欄楯で囲まれており︑重量のある石のブロックに砕石を混ぜて核とし︑ 表面は一層の加工石材で化粧されている︵ Marshall 1940: 41︶︒⑶グプタ期およびポスト・グプタ期のいくらか小振りのス トゥーパ:サーンチー第一塔の周囲に点在する類のもので︑すべて方形または円形の基壇に載っており︑柵は加えら れていない︵ Marshall 1940: 46︶︒⑷直径一メートル以下のより小さなストゥーパ:サーンチー丘陵南側下部の傾斜地で近 年になって発見されたまとまりなど︵ Willis 2000︶︒これらは従来︑機能上は﹁奉献塔﹂と分類されていたが︑現在は﹁聖者 の傍らへの埋葬︵ burial ad sanctos︶﹂を示すストゥーパだとみなす研究者もいる︒一般的な出家者や在家信者の遺骨・遺灰 を収納するために建造されたもので︑聖遺物信仰の階層構造に従って︑より重要なストゥーパからは離れた場所に位置 しているのである︒同じようなストゥーパは研究対象地域に広く出現しており︑サーンチーのように大きな僧院集合体 ︵ ︶ ︵ Monastic compounds︶の内部に存在する場合もあれば︑サーンチーのすぐ西にあるダルガワン・ダム北側の小丘のように︑ 15 僧院 では︑僧院に関して四つの主要な型式が確認されている︒そのうちの二つだけがサーンチー自身に存在してい 広い墓地を形成している場合もある︵図 参照︒ Shaw and Sutcliffe 2005: 8-12; Shaw 2007︶︒ 2 の形態がこの型式をよく残しており︑保存状態の良い例がモーレル・フルド︵図 ︶︑サトダーラ︑ソーナーリ︑ る︒⑴中庭のある僧院:従来は︑グプタ期以前には現れないと考えられてきた︒⑵いわゆる﹁高台上の僧院﹂ :サーンチー の建物 8 アンデールにある︒ 135 S S P 3 図 4 ピタルコーラにある高台上の石窟僧院の入口。基壇に彫 り込まれた内部階段の前に守門神とナーガが見える。 3 他例に比べて状態が悪化しているアン デールの例を別にすれば︑すべての高台 はその遺構主要部に階段が取り付けられ ている︒同様の遺構は新たに登録された 遺 跡 の う ち 五 か 所 ︵ マ ワ サ︑ サ レ ー ラ︑ ム ︵ ︶ ル リ ケ ー リ︑ チ ャ ン ド ナ・ ト ホ ー リ ア︑ ビ ガ レル・フルドにある高台上の祠堂跡を主 328︶も多少混乱している︒両者は︑モー も カ ニ ン ガ ム︵ Cunningham 1954: 311-2, ついては︑マーシャル︵ Marshall 1940: 68︶ サー塔群﹂遺跡における高台の機能に ン ︶に も 認 め ら れ る︵ Shaw 2007︶ ︒ ﹁ビル 16 ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ 見れば︑古代インドの主だった建造物がしばしば柱や大きな高台の上に載せられ︑木材や他の腐敗しやすい材料で作ら 造りで︑おそらくは木製の上部構造を伴っていたことを示唆している︒サーンチーやその他の初期の遺跡の説話浮彫を 成していると考える︒これらの遺構はすべて︑砕けた赤色レンガの堆積物で覆われており︑上部の壁がかつてはレンガ ︵ られないので︑これらの高台の本来の機能を導く有益な指標とはなりえない︒筆者は︑それらが僧院建築群の基礎を形 以降︑つまり高台が最初に建造されてから八〇〇年後に年代づけられている︒祠堂の付加という行為は他の遺跡には見 17 な根拠として︑これらの高台が祠堂の基壇であると提起したのである︵図 ︶︒しかしながらこれらの祠堂跡は七世紀 図 3 モーレル・フルドの僧院の高台(北から。左側に階段が 見え、頂上には後代の祠堂が残っている) の守門神と一体のナーガによって守られている︵図 ︶︒上に設置された僧院は︑伴った碑文から前二世紀半ばに年 窟の第四窟へは︑高い基壇に掘り込まれたひと続きの屋根のある階段で到達するようになっており︑その入口は二体 デカンに所在する多くの石窟僧院もまた︑岩を削り出した高い基壇の上に位置している︒例えば︑ピタルコーラ石 に見いだされるかもしれないということを示しており︑これはさらなる検討に値する主題である︒ てこのように永続していることは︑ヒマラヤ地域の高くそびえる僧院も︑その究極的な起源はインドの高台上の建築 建築に木材を多く使用することは主にネパールと他のヒマラヤ地域に限定される︒昔の考え方が︑離れた地域におい ル・フルドにおいて中世に祠堂が付加されたことに影響を与えているのだろう︒しかしながら八世紀頃以降は︑宗教 れた上部構造を伴っていたことは疑いがない︒後代の寺院も大きな高台の上に建造され続けており︑このことがモーレ 19 なしている空間配列の規範モデルである︒しかしながら︑中庭型はピタルコーラやデカンの他の石窟僧院において遅 う仮説である︒別稿でも論じたとおり︵ Shaw and Sutcliffe 2001: 73︶︑この論法のもっとも明らかな問題は︑その基礎を 文献上でほのめかされていた遊動的な僧院生活から定住的な僧院生活への移行を︑考古学的に明示しているのだとい のような仮説の上に描かれているのである︒すなわち︑中庭のある僧院はその計画性と﹁秩序﹂を強調することから︑ インドにおいては仏教僧団の順応が遅かった︑という理論を支えてきた︵ Schopen 1994: 547︶︒そしてこの理論は︑次 期またはポスト・グプタ期といったかなり遅い時期まで登場しないと考えられてきたのである︒この枠組みは︑中 北西インド地域に起源するとみなされ︑サーンチーでは遺跡の南側に例があるような︵ Marshall 1940: 63-4︶︑グプタ後 義を呈することになる︒この僧院は完全に﹁中庭のある僧院﹂に基づいているが︑この型式は通常︑クシャーン期の この従来認識されてこなかった僧院の形態は︑サーンチーにおける僧院建築の歴史と編年に関する通説に対して疑 た可能性もあるのである︒ 成されている︒つまり︑サーンチーやその周辺遺跡の高台の上に︑次に述べるような同じ平面プランの遺構が存在し 代付けることが可能で︵ Mitra 1971: 173; Indian Archaeology 1957-58 — A Review: 65-6︶︑中庭の周囲に並ぶ一連の小部屋で構 4 136 137 18 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) くとも前二世紀にすでに現れているという事実が意味するのは︑この種の僧院の原形となる早い段階の類例が︑中イン ドにも存在する可能性を除外できないということである︒この趣旨で証拠となり得るものが︑第三のカテゴリーの僧院 から提供される︒この第三のカテゴリーは︑当該地域で新たに記録されたいくつかの遺跡で見いだされたものの︑サー ンチー自身には存在していない︒フェローズプル︑コートラ︑マワサ︑デーヴラジュプルにおいて︑これらは相互に接 続した一連の中庭の周りに長方形の遺構が配置される構成となっている︵ Shaw and Sutcliffe 2005: 11-14, fig. 11-12; Shaw 2007︶︒ で記録された﹁新しい﹂七か所の遺跡で見いだされたもので︑簡素な一部屋または二 こうしたむしろ偶然に近い配置は︑サーンチー地域における中庭型の︑初期の実験的な段階を示しているのかもしれな い︒僧院の第四の型式は︑ 部屋の長方形遺構で構成されている︒この型式は︑前述した中庭のある僧院の原形であったかもしれない︒壁体は︑角 によってサトダーラ 礫を中核として両側面を平らな切石積みで化粧している場合もあれば︑自立した大型の丸石で構築し︑その間隙をおそ らくもともとは泥またはモルタルで埋めていたような場合もある︒前者の型式の例として︑ ︵ ︶ 発見される﹁岩陰僧院﹂である︵図 ︶︒先史時代の岩陰遺跡を僧院として使用するために改変した痕跡が残っており︑ 僧院風の居住場所としては︑第五のカテゴリーも存在している︒サーンチーおよび当該地域のいくつかの仏教遺跡で 頃の年代が示唆される︒ 考えて︑下位の出家者や巡礼者が使用していた可能性がある︒ Phase II のストゥーパの近くにあることから︑前二世紀 で発掘されたものがあり︵ Agrawal 1997: fig. 7︶︑その簡素な形態と︑主要なストゥーパおよび高台上の僧院との距離から A S I 方でサーンチー︑モーレル・フルド︵図 ︶︑ビガンにおいては︑仏教建築コンプレックスの外縁に沿って存在している︒ は︑ナガウリとアーマドプル︵ヴィディシャーの北方︶においては︑人里離れた森林の中の住居として見いだされる︒一 入口の前に高台を構築したり︑仏教壁画や碑文が壁に書かれたり︑ストゥーパの近くにあったりする︒このような岩陰 20 2 仏教遺跡の﹁地誌学﹂ これらの問題は別稿で詳細に取り上げているが︵ Shaw 2007︶︑一方では︑なぜ僧団が一貫してこのような丘陵上の立 よる庇護ネットワークの証拠と並べて検討することも重要なのである︒ 本論で述べるように地域間の僧団の献身に大幅に頼っていたであろうが︑僧院を地元の集落︑農業資源︑そして信者に 組み込まれていなければ︑丘陵の上という人里離れた立地の中で生き残ることができなかったであろう︒僧団の生計は︑ 会に依存しているからである︒サーンチー地域の僧団は明らかに︑その地域の社会的・経済的インフラの中にある程度 というのは弁証法的かつ﹁二律背反的﹂だ︒なぜなら︑それは社会の﹁外側﹂である一方で︑財政支援という点では社 カでのパターンに関連して論じたように︵ Gombrich 1988: 95, 156︶︑空間的条件と社会的条件の双方において︑僧院の位置 すべきだが近すぎるべきでもない﹂という規定に一致している︵ Vinaya Piṭakaṃ, III, 155︶︒ゴンブリッジが近代スリラン ︵ Shaw 2007︶ ︒この僧院と集落との空間的な関係は︑律蔵の戒本︵波羅提木叉︑ Patimokka︶にある﹁僧院は街の近くに位置 した地誌学上の区別を作り出している︒しかし同時に︑これらの遺跡間の距離が一~二キロを超えることは滅多にない 跡と他の考古学的景観の諸相︑すなわち集落︑灌漑網︑仏教以外の宗教と関連する地点︑などとの間にあるはっきりと 陵上にあり︑その僧団が積極的に探し出した立地であると思われる︵ Shaw 2007︶︒このような丘陵上の立地は︑僧院遺 少数の都市近くにある仏教遺跡︵例えばヴィディシャー周辺︶を別にすれば︑サーンチー地域の僧院遺跡の大多数は丘 三 るのかどうかという問題については︑別稿で論じている︵ Shaw 2007︶︒ 有名な岩陰遺跡群からも発見されているが︑これらが中インドにおける僧院生活の﹁大規模化以前﹂の段階を表してい かは出家者たちによって使用されていたのだろう︒改変された岩陰はビンベートカやパングラリヤといった中インドの 一四か所の仏教遺跡において︑改変されていないように見える岩陰遺跡が存在することを考えれば︑そのうちのいくつ 5 138 139 S S P 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 地を探し出しているのかという︑実際的・儀礼的・象徴的・社会的な意味を探索するのも興味深い︒このような立地の もっとも明らかな利点は︑モンスーンによる洪水から逃れられることにある︒非常に多くの集落が盛土の上に位置して いるのはこの理由による︒しかしながら︑サーンチー地域においては︑近代にしろ古代にしろ︑丘陵上を占める村落は ほとんどなく︑むしろより低い傾斜地に存在している︵図 ︶︒これはおそらく︑丘陵の上には比較的行きづらいから 丘陵上のストゥーパ ̶ブッダを﹁見る﹂ ̶ ︶ ︵ ︶ 落に暮らす人々は︑上方に出家者たちの存在を常に感じていただろう︒他の仏教遺跡もすべて︑ストゥーパの視覚的存 ルにおいては主ストゥーパが崖の際にそびえる劇的な様子で︑視界に印象的なシルエットを創り出している︒近隣の村 するのに役立ったであろう︒サーンチーにおいては︑主ストゥーパは周囲数マイルから見ることができたし︑アンデー 丘陵の上という場所は︑周辺の景観を通じてストゥーパが目撃されることを保証することで︑布教という目的を促進 四 ただ場所を占めることで︑僧団は在地の宗教的ヒエラルキーにおける自らの位置を宣言していたのである︵ Shaw 2007︶︒ 22 りも仏教の世界観を多く語る資料となるのである︒しかしながら︑より古層の信仰と関連する可能性の高い景観の中に するように︑こうした神々の石像は中インドにおいては仏教伝来のずっと後になるまで現れず︑ ﹁在地﹂の宗教的習慣よ る期間においてはヤクシャ信仰もナーガ信仰も︑痕跡を残すような形態をほとんど取らなかったからである︒一方︑後述 でに聖地とみなされている場所を積極的に探し出していたかどうかを決することは難しい︒なぜなら︑問題となってい 説明を裏書きしている︵ Kosambi 1962︶︒これらの信仰の影響は︑仏教建築の構成要素の中にも残されてきた︒僧団が︑す ︵ 従ったという示唆は︑主要な僧院遺跡において仏教以前の儀礼的習慣が優越していたことに関する考古学的・民族誌的 れている︵ Vinaya Piṭakaṃ, II, 107, 150; III, 71; IV, 85, 267, 360; Jātaka No. 538︶︒儀礼的景観の構成は特定の地誌にまつわる慣習に 中心となり︵ Hardy 1903: 61-6︶︑アショーカ法勅の第一章および第九章では比丘・比丘尼には禁じられた行事として挙げら されている︵ Misra 1981: 50; 例えば Dīga Nikāya, 41︶︒これらの聖堂は︑しばしば王舎城で毎年行われる丘陵上の祭祀の類の 丘陵の上という場所は︑象徴的・神話的連想をも含有しており︑古い文献ではヤクシャや他の地霊の棲み処と表現 ていたのである︒ もしただろう︒したがって︑経済的条件と精神的条件の双方において︑仏教徒たちは社会的景観の周縁部に追いやられ その場所が埋葬と関連していたことから︑規範的なバラモン教的世界観に従えば︑極端に穢れているという連想を与え 農耕目的には適さないために︑そのような立地は仏教僧たちの﹁非生産﹂という立場に明らかに適合していたものの︑ のために︑仏教遺跡︵特にデカンの︶はより古い﹁原史時代﹂の墓地の上に存在しているのかもしれない︵ Schopen 1996a︶︒ に経済的価値が低いかまったくない場所を占める以外に選択肢がなかったという可能性が高い︒同じような一連の制限 示される︒したがって︑ ﹁非生産﹂集団としての新参の僧団は︑その景観の中で自身の場所を見つけるにあたって︑他 サーンチー地域においては︑壁画のある岩陰遺跡と細石器の両方︑またはどちらかが僧院遺跡で出現する頻度によって 言及している︒先史時代の狩猟採集民と︑後の時代の苦行集団とによって選択されたこの種の場所が一致するレベルは︑ ウティリヤの﹃実利論︵ Arthaśāstra︶﹄のような古代の文献も︑非農耕地域を学究的・苦行的活動の目的に充てることに た他の遊行集団または﹁財産放棄﹂集団によって好まれていた︵ Jacobson 1975: 81︶︒年代を決めるのは難しいものの︑カ 明している︒マディヤ・プラデーシュ州の別地点の研究によれば︑同じような場所がしばしば︑苦行者や聖人といっ 結びついてきた︒この点は︑ヴィンディヤ山脈全域で非常に多くの岩陰遺跡と細石器散布地が発見されていることが証 狩猟採集民と同様に農耕民によっても利用されるが︑丘陵地域は古代以来︑生産を行わない狩猟採集民の集団と密接に ということもある︒一方で︑彼らが保持する森林は︑野生の動植物という点では価値の高い自然資源である︒これらは︑ であるが︑さらには農業的価値の低さ︑水供給の不足︑貯水能力の不足にもよるだろう︒また︑包囲攻撃を受けやすい 1 140 141 21 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 在感を最大化することに同じような関心を払っている︒ ストゥーパ遺跡同士が︑互いに視認可能であるという要素も特筆すべきである︒サーンチーからはモーレル・フルド ︵ ︶ のストゥーパ群を見ることが可能で︑さらに遠方にはアンデールのストゥーパ群がある︒南西方向には丘陵の稜線が見 ︶ る﹁邪視﹂を逸らすことを目的としていたのかもしれない︒聖遺物信仰の儀礼的・政治的な霊験は︑盗難からの保護も る︒もっとも重要なストゥーパの周囲に配される鈎状に開いた門は︑真っすぐにしか進めないと古くから考えられてい 見なされるため︑ストゥーパは敬虔な信者の眼差しだけでなく︑より悪意のある視線に対しても無防備だったのであ 規制し︑それらの綿密な監視を維持することで聖遺物を守る必要があったことも示している︒儀礼上は生きた人間と モニュメントの位置取りは︑ストゥーパを眺め讃嘆することを可能にしただけでなく︑ストゥーパへのアクセスを るのである︒ と見なされていたという事実が︑儀礼的・政治的な危険な力からそれを守る必要性についてのもっとも明瞭な説明にな は﹁︵生きた︶人間性﹂がかなりの程度付随しているということが示されている︒このように︑ストゥーパが生きた存在 そして五つのうちの四つに︑生きている存在を殺すことあるいは傷つけることが含まれていることから︑ストゥーパに 342, inscription no. 404; Schopen 1997: 129︶ ︒この記録に言及されている五無間業は︑律蔵の文献に定義されているものである︒ ︵ に移動させる者は︑五無間業を犯した者に匹敵する︵恐ろしい︶状態に陥るだろう﹂という内容である︵ Marshall 1940: I, 文は次のように警告する︒すなわち﹁ここ︵ストゥーパ︶から︙︙石造物を取り去り︑またはそれを他派の阿闍梨の家 聖遺物およびストゥーパの﹁生命力﹂の強烈な効能は︑サーンチーの西側出入口にある碑文で示されている︒この碑 けられたのである︒ ダルマの効能は地元の人々へも︑彼らがそれを知っていようがいまいが︑また望むと望まざるとにかかわらず︑投げか 卓越性のために︑離れた僧院に属する出家者たちによってもブッダが﹁見られる﹂ことを可能にしている︒同じ論理で︑ る手段であった︒さらに︑サーンチー第一塔は︑後述するように舎利を収納していた可能性が高いが︑その視覚的な の出家者たちにとってこの仕組みは︑異国の地に仏教の教え︵ダルマ︶がまったく文字通り﹁存在している﹂状態にす ることになる︒視覚的な優位性というまさにその事実によって︑その影響力は物理的限界を超えることができる︒仏教 このことは︑ストゥーパ建築は仏教への帰依を促す特質があるという我々の理解に対し︑強力で新しい側面を付け加え されるが︑これは崇拝対象の吉祥な眼差しを通して︑信者が精神的な功徳を得ることを保証する観念である︵ Eck 1981︶︒ ンスクリット語のダルシャナ︵見ること︑ darśana︶という観念は︑他のインド的な信仰におけるさまざまな段階で見いだ て死んだ場所は﹁聖遺物﹂へと姿を変えた︒なぜならそれらの場所は︑ブッダによって﹁使用された﹂からである︒サ 単なる聖地ではなく︑ ﹁ “使用された”聖遺物︵ pāribhogika dhātu︶﹂である︒ブッダが生まれ︑悟りを開き︑説法し︑そし 遺骨が納められているブッダや聖人を眼差して︑礼拝することと等価なのである︒この﹁見る﹂ことの対象となるのは︑ と︑聖遺物信仰の動態は次のようなことを示している︒すなわちストゥーパを単に﹁見る﹂ことは︑そのストゥーパに 礼拝することとの類似を強調しており︑それは︑仏教の規範の中でも認められている特徴である︒さらに具体的に言う との重要性を浮かび上がらせる︒トレイナー︵ Trainor 1997: 174-7︶もショペン︵ Schopen 1997: 117, n.9︶も︑ ﹁見る﹂ことと らのストゥーパが非常によく見えるという環境設定は︑仏教に関連する場所を﹁見る︵パーリ語︑ダッサナ dassana︶﹂こ 空間の中に︑あるいはそれを超えて仏法僧の力を投影する﹁現に生きている存在﹂の入れ物として描写している︒これ 配置は受動的なネットワークからは程遠い︒文献や碑文はストゥーパを単なる舎利の納骨堂としてではなく︑周囲の このレベルでの相互視認性は︑主要な儀礼地点同士の繋がりを維持する重要な方法であったのだろう︒このような 向きを規定しているように思われる︵ Shaw and Sutcliffe 2005: 8-12, figs. 9-10; Shaw 2007︶︒ 側ではビガンのような遠方からも見ることができ︑西側のダルガワンの二つの丘陵では︑小ストゥーパ群と墓の主要な えており︑そのすぐ背後にはソーナーリとサトダーラのストゥーパ群が存在している︒サーンチーの主ストゥーパは北 23 142 143 24 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 要塞化された仏教遺跡 ̶監視と防衛 ̶ 必要としていたのである︒ 五 ストゥーパはまた︑ ﹁世俗的な﹂人間活動の脅威に対しても無防備だった︒もっとも劇的な例を挙げるなら︑アンデー ルが景観の中で非常に戦略的な位置を占めていた理由はこの点にある︒カニンガム︵ Cunningham 1854a: 342︶は︑アンデー ︶ ルからはモーレル・フルドやサーンチーのストゥーパと同様に︑︵ヴィディシャーの︶ロハンギ丘が見えることを指摘し た︒この相互視認性は︑景観のいたるところにシャーサナ︵ śasana︑仏教の教えの集成︶が常に存在しているということを ︵ 強調するだけでなく︑要塞的な立地に適した戦略的な優位性をもたらすことともなった︒片側は切り立った崖︑反対側は 長い緩斜面を伴っているため︑気づかれないようにアンデールのストゥーパに近づくことは誰にとっても困難であった︒ 先述した高台上の僧院も︑見た目は明らかに軍事用である︒モーレル・フルドの高台には四方の角に望楼があり︑そ のかなりの高さとあいまって︑攻撃に対する抑止効果を持っていただろう︒ストゥーパの限りなく広い視界を︑儀礼お よび防衛の目的︵後述︶に供することに加え︑ストゥーパは周辺地域を見渡す﹁見張所﹂にも重ねられていたのだろう︒ しばしば望楼と稜堡を伴う頑丈な周壁といった︑要塞的な要素がこの地域の仏教遺跡のうち一〇か所から発見されてお り︑そこにはサーンチーとアンデールも含まれている︒これらの壁の年代を確定することは難しいが︑サーンチー丘陵 の東端の壁は︑おそらく一〇~一一世紀に建造されている︒サーンチーの中でもっとも新しい建造物の一つである建物 ︵ ︶ が︑ほぼ同じ年代である︒四方の角に望楼があるこの建物は︑見た目は明らかに軍用であり︑ヴィディシャーの北側 ︵ ︶ 性が高い︒ポスト・グプタ期以降に内陸側の諸遺跡が︑そして一一~一二世紀以降にサーンチーが︑継続的に使用され なってこれらの防御設備を建造した理由は︑当該地域における最終的な仏教衰退の背後にあった力と関係している可能 にあるビガンにおいて近年に確認された︑要塞化したストゥーパの囲い壁と非常によく似ている︵ Shaw 2007︶︒後世に 26 ︵ ︶ 的には︑ストゥーパへの危害はシャーサナ︵仏教の教説︶および文字通り仏教の﹁身体﹂に対する襲撃と見なさざるを 1940: 23-4; Verardi 1996: 230-31︶ ︒サーンチーがシュンガ朝によって攻撃されたという直接的な証拠は存在しないが︑状況 そしてこのことは︑サーンチー第一塔がポスト・マウリヤ期に意図的に壊された可能性を示唆するのである︵ Marshall と関連付け︑彼らをバラモン教徒とみなす慣例によるなら︑彼らは徹底した正統派︵スマールタ派︶に位置付けられる︒ いる︒ポスト・マウリヤ期の王であるプシュヤミトラは︑異教︑特に仏教と敵対したようだ︒馬の供犠をシュンガ朝 しかしながら︑先述した証拠は︑これらの遺跡がより古い時代においても敵の脅威にさらされていたことを示して ていた証拠はほとんど無いのである︵ Shaw 2007︶︒ 27 ︵ ︶ 引き付けたので︑彼らによる布施は相当量の財産になっていただろう︒サーンチーの僧院 で発見された大量の高価な 品々︵ Hamid 1940: 85-6︶は︑このようにして蓄積された可能性が高い︒最後に︑デカンの石窟僧院の多くが主要な交易 29 51 ︵ Ray 1994: 122︶ ︑守らねばならない貴重な書庫が含まれていたと考えられる︒第二に︑大きな僧院ほど多くの巡礼者を いっそう示唆されることになる︒第一に︑僧院は瞑想の場所であることに加えて︑学習・研究の中心でもあったので 僧院の広範な社会的・経済的機能に関わる理論に依拠するなら︑仏教遺跡は攻撃や略奪を受けやすいということが う説得力のある意見を提唱した︵ Duncan 1990も参照︶︒ 展を遂げたが︑ストロング︵ Strong 1983︶は︑このような王権が最初はアショーカ王によって前三世紀に発展したとい たちによって︑簡単に盗用されたのである︒聖遺物を国家の道具として使用することは︑スリランカにおいて精巧な発 て使われがちだったからである︒仏法の拡散は︑自らと法王・転輪聖王としてのブッダとの類似を利用しようとした王 り︑仏教の初期の段階から︑聖遺物は争いの源であった︒これは聖遺物が︑仏法の拡散という政治的正当性の道具とし 得ない︒しかしながらこれは︑単純な異教対正統派という問題ではない︒サーンチーの門の浮彫に表現されているとお 28 144 145 25 43 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 路上における地の利のある立地を占めており︑このことは僧団が地域間の交易を推し進めるのに積極的な役割を演じて いたことを示している︵例えば Heitzman 1984︶︒この見解は︑僧団が旅商人たちの交易利権を援助していたことを示す碑 文および文献的な証拠から証明される︒この援助は︑交易キャラバンに対して安全な避難所を提供すること︑危険のな い宿泊施設を与えること︑現金を保管すること︑恒久基金に対して利子を貸し付けること︑などによって行われていた ︵ Schopen 1994︶ ︒また僧団は︑絹や﹁七宝﹂といった交易品を儀礼的寄贈品として仏教の枠組みに編入することによって︑ その商業的価値を高めていたようにも見える︵ Liu 1988: 101︶︒こうしたすべての要素が︑サーンチー地域において見ら 遺跡内の空間構成と聖遺物の守護 れる防衛メカニズムの類の必要性を増大させたのである︒ 六 丘陵上という隠れ家は︑聖遺物とそれを気にかけていた出家者たちに安全地帯を提供した一方で︑ストゥーパが守ら れ︑正しく礼拝されるためには︑僧院コンプレックスそれ自体の中で︑特定の条件が必要とされた︒聖遺物が世界中に その力強い影響を表し続けるために︑この状況が維持されなければならなかったのである︒ 一五〇年以上前︑カニンガム︵ Cunningham 1854: 315︶はソーナーリの第一塔と第二塔の間の角度が︑サーンチーのそ れと著しく似通っていることに気づいた︒彼は﹁この特定の角度には︑特別な重要性があるに違いない﹂とすら提起し たが︑その線でこれ以上調査を進めることはしなかった︒サーンチーとサトダーラにおけるストゥーパおよび聖遺物信 仰の動態が︑この配置の一つの説明となる︒これらの遺跡では︑今までのところ主ストゥーパから何らの聖遺物も出土 していないが︑もともとは︑そしておそらくは今も︑ブッダ自身の舎利を納めている可能性が高い︒律蔵の条項は︑出 家者のストゥーパはその生涯における格にしたがって配置されねばならず︑特に舎利弗と目犍連のストゥーパは︑ブッ ダのストゥーパの傍に適切に配置されねばならない︑と規定している︵ Mahāparinibbāna sutta 95.2.7; Roth 1980: 184-5; Willis 2000︶ ︒サーンチーおよびサトダーラにおいて舎利弗と目犍連の舎利を納めたストゥーパは︑これらの規則に適ってい るように思われる︒さらに︑サーンチーの第二塔が主要施設を囲む壁の外に設置されていることも律蔵に合致している︒ これはおそらく︑第二塔にはブッダよりも数百年の時代が降る雪山部の聖者たちの聖遺物が納められていたからだろう︒ だが︑サーンチーの主ストゥーパがアショーカ王の時代︵この時代までに︑律蔵は部分的に成文化されていた︶に建造され て以降に︑雪山部の人々が初期段階の権力構造を形成したことは︑強調すべき重要な点である︒対照的にソーナーリの コンプレックスは︑その全体が雪山部によって前二世紀に建造されたと思われる︒そこが﹁新規の﹂場所であったため︑ 雪山部の人々は規則をうまくごまかして︑自分たち自身のモニュメントを主ストゥーパの傍に設置することができたの である︒これは︑雪山部が高位にあるということの露骨な宣言だったのではないだろうか︒この点は︑ ﹁ビルサー塔群﹂ のもっとも重要なストゥーパが︑囲いの中に設置されているという事実によって確かめられる︒新たに記録されたス トゥーパ遺跡に包蔵されていた聖遺物の由来は不明であるが︑囲い壁の存在は︑それらが儀礼上︑相対的に重要であっ たことを強く示唆している︒ストゥーパの大きさと儀礼上の地位との一致は︑モーレル・フルドのような遺跡において も示されている︒この場所では︑一般の出家者や在家信者の墓を含む可能性の高い小ストゥーパ群︵ Schopen 1996︶がよ り低い地点に位置しており︑上方の高台にある雪山部の聖者たちのストゥーパの儀礼的優位性と区別していると考えら れる︵図 ︶︒ モニュメントの配置は︑ストゥーパへのアクセスを調整し︑緊密に監視することによって︑聖遺物を守る必要性から も説明可能である︒あらゆる場合においてストゥーパの位置は︑広大な高台上の僧院と関係があるように思われる︵図 ︶ ︒こうした僧院は︑すべての﹁ビルサー塔群﹂の遺跡と︑新たに記録された仏教遺跡のうち四か所で発見されている︒ 146 147 5 モーレル・フルドの高台はほぼ一〇メートルに達しており︑さらに二層から三層の付加的な遺構がその上に載っている︒ 2 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 図 5 モーレル・フルドの遺跡分布図 アンデールやサーンチーから見ると︑モーレル・フルドの高台は今でももっとも目立つ建築遺構群の一つである︒前二 ︵ ︶ 世紀には︑現在の高さの二倍あり︑その周囲全体を見下ろしていたのだろう︒すべての﹁ビルサー塔群﹂の高台は︑そ の北壁に二つの階段が設置されており︑それらはソーナーリの﹁祠堂﹂︵すなわち高台︶の階段と様式・年代が近 ︵ ︶ いと記している︒この伝統は後代の建築においても放棄されておらず︑例えばラナクプルのジャイナ教寺院などで見る 祠堂 り︑その建物への出入りを監視するのに有用であったと思われる︒サーンチーにおいてマーシャル︵ Marshall 1940: 65︶は︑ を通るということを意味していた︒この工夫は︑サトダーラにおいては曲折する出入り口によってさらに機能性が高ま の構造主要部に掘り込まれた内階段を持っている︒このことは︑僧院内の主要な建物に入る際に︑屋根のある狭い通路 30 ︶ ︵ ︶ ︶ ︒こうすることによって︑ストゥーパを礼拝することが可能になっただけでなく︑十分な監視の手段にもなったの である︒このような監視に対する配慮が周辺地域に広がっていったことは︑サトダーラの崖上にある高台︵ ︶の存在 ︵図 ︵ ならず︑少し鈎形に配置された結果︑もっとも大きい僧院から両者を見ることが可能になっている理由が分かってくる を熟考することができたということを意味している︒このことから︑モーレル・フルドの第一塔と第二塔が一直線状に 32 家者たち︶が︑常にすべてのストゥーパを眺めることができ︑したがって吉祥の視線とブッダおよび阿羅漢たちの存在 とに関する我々の議論に立ち戻るならば︑このことは出家者たち︵少なくとも疑いなくこれらの建物を使用していた古参の出 上部構造がなくとも︑仏教遺跡の高台からは諸ストゥーパの全景を見ることができるようになっている︒ ﹁見る﹂こ ことができる︒ 31 からも分かる︒この高台は︑主ストゥーパへの視界を提供するだけでなく︑眼下の渓谷に対する望楼としても二重に機 B に掲載されている︒一つはベース川の西側で︑もう一つは主要コンプレックスの南側にや 能していたのである︵図 ︶︒もともとはカニンガムによって地図が作成されていた地域の外にある二つの僧院の高台が︑ の間に記録され︑図 6 6 や離れて存在している︒これら二つの僧院からは︑主要な諸ストゥーパを明瞭に見ることがことができるのである︒ 149 40 5 33 S S P ソーナーリにおいても同様の配置が見いだ される︒第一・三・五塔の向きは︑それらす べてが僧院のある高台から見えるようにずら して配置されていることを示している︒高台 か ら の 視 線 は 矢 印 に よ っ て 示 す︵ 図 ︶︒ ス ︶ ︒階段がストゥーパにおいてもっとも防 を必要とした機能であったことが分かる︵図 れ て い る よ う に 思 わ れ︑ こ れ が 特 別 な 防 備 から見ることができるように計画的に配置さ トゥーパの上部テラスへと導く階段も︑僧院 7 かの要素が裏書きしている︒階段は︑信者た 備の必要のある部分であったことは︑いくつ 7 ︶ ば︑聖遺物は﹁消失﹂したり自らの位置を動かしたりすることができたのである︵ Willis 2000: 15︶︒ い態度を身に着けてようやく近づくべきであると明記しているのである︒さらに︑正しい礼拝方法に一致していなけれ トレイナー︵ Trainor 1997: 154︶の議論によって実証される︒その規則は︑ストゥーパへは靴を脱ぎ︑尊敬をもった正し ていたのである︒僧団がストゥーパへのアクセスを監視することに関心を持っていたことは︑儀礼的な規則についての ︵ ことができた︵ Falk 1977: 288︶︒宇宙観というレベルで言えば︑階段は︑より高位の精神的段階へと登る可能性を提供し ちを舎利室に到達できるほどに近くへ導き︑彼らはテラスの上でブッダや後代の導師たちの聖なる痕跡を右繞礼拝する 図 6 サトダーラの遺跡分布図 は︑近 8 ︵ ︶ から簡単に見えるよう 8 サーンチー第一塔のすぐ南には︑馬蹄形の内陣を伴う平 にするためだ︑と考えたくもなる︒ り付けられた理由の一つは︑建物 ている︒したがって︑サーンチー第二塔の階段が東側に取 東に面しており︑一方で第一・三・五塔の階段は西に面し 貫性が無いことがわかる︒ソーナーリでは第二塔の階段は しかし他の遺跡を調査すると︑階段の取り付け方向には一 要ではなくなっていたということを示しているのだろう︒ ﹂ 半には南側に位置していたもっとも大きな入口がさして重 通っていた丘のこちら側の古い参道のように︑前二世紀後 単 な る 利 便 性 の 問 題 で あ る︒ ス ト ゥ ー パ 東 側 入 口 の 傍 を 南側ではなく︵東側に取り付けられている︶︒これは疑いなく︑ について次のように言及した︒ ﹁通例の︑モニュメントの マーシャル︵ Marshall 1940: pl.71と関連註︶は︑第二塔の階段 定的ながら主ストゥーパを眺めることができるのである︒ た る 歩 道 の 上 端 部 を 防 護 し て い る︒ そ の 建 物 か ら も︑ 限 35 持っていることが分かっているが︑その頂上へと向かう主 年 に な っ て 発 掘 さ れ︑ 他 の 遺 跡 の 高 台 の よ う に 内 階 段 を するような位置に配されていると思われる︒建物 サーンチーはこれらのパターンの例外であるようだが︑ここでも僧院は主ストゥーパに対するアクセスを調査し規制 図 7 ソーナーリの遺跡分布図 150 151 34 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) があり︑これはマウリヤ期に建造されたあと︑何度か建て直しされてい された︵ Agrawal 1997; Shaw 2007︶︒同じアプシダル建築は︑単純な石積みの壁ではあるが︑ の間にマワサで記録さ について解説した︒サトダーラにおける一九九〇年代の発掘では︑主ストゥーパのすぐ北側に似た建造物の基礎が発見 る︒オールチン︵ Allchin 1995: 241-2︶は︑北インドの他の初期仏教遺跡においてこの配置がどのように見出されているか 面プランの祠堂︵アプシダル祠堂︶である建物 18 ナーガ信仰 ︵ ︶ ︵ ︶ 口に設置されており︑それらの口は︑上方にある建造物群からの水を排出するパイプとして機能している︵図 ︶︒こ 楯のいくつかで大蛇のモチーフが認められ︑デカンのピタルコーラでは︑二匹の鎌首をもたげたコブラが主要僧院の入 ナーガたちはしばしばストゥーパや僧院への入口の守護者として登場するのである︒サーンチーにおいては︑第二塔欄 人々が聖遺物を礼拝できるようになるまで︑どのようにナーガがそれらを守ってきたのかを物語っている︒それゆえに︑ 37 あるいは水中にある財宝の守護者としての彼らの役割を直接的に翻案したものである︒すなわち︑仏教文献は頻繁に︑ えられていた神という地位から引き降ろされ︑ナーガたちはしばしば仏教の聖遺物の守護者となったが︑これは地下 伴う雨を抑えたり︑大洪水の原因になったりすることを通して自然災害を引き起こす能力のためであった︒もともと与 で外部からの制御を必要とする存在として表現されている︒それは有毒の噛みつきのためでもあり︑またモンスーンに じくよく知られた物語とともに︑サーンチーの塔門の浮彫の一つにも認められる︵ Marshall 1940: pl.52︶︒ナーガは︑危険 36 有名である︒このエピソードは︑ナーガのムチャリンダ龍王が成道後の瞑想を続けるブッダを嵐から守ったという︑同 ては多くの文献が存在しており︑中でもカーシャパの火神堂に住む獰猛な蛇を服従させる物語﹁火神堂内毒龍調伏﹂は ︵ナーガラージャ︶もまた︑重要な役割を果たしていた︒危険なナーガたちの力に抗してそれを打ち負かすブッダについ 聖遺物の守護と礼拝が僧団にとってもっとも重要な責務であった一方で︑伝統的に農業と豊饒に関連する蛇の神格 七 特別な環境が存在したと考えるのが妥当であろう︒ な朗誦はどこでも行うことができたが︑仏教的な僧院生活にふさわしい︑際立って規則的で共同的な性質を付与された の条文は︑懺悔を目的に行われる布薩の日に出家者たちによって誦えられていた︵そして今も誦えられている︶︒このよう て建築的に表象されているのである︒この点は律蔵に含まれる規則集成である波羅提木叉によっても示されており︑そ のであると見なし得る︒法あるいは教えというものは︑チャイティヤ祠堂︵ストゥーパを設置するアプシダル祠堂︶におい だと論じている︒この提言を拡張すると︑もっとも目立つ古代の残滓を高台として使用した僧院建築群が︑僧団そのも 宝という概念が︑僧院という環境においてはストゥーパがブッダを表象している︑ということを説明するのに役立つの ︵ダルマ︶ ﹂の物理的表象として理解されていたのではないかと考えている︒ウィリス︵ Willis 2000: 12-15︶は︑仏法僧の三 筆者の研究は進行中であり結論は必然的に暫定的なものとなるが︑アプシダル祠堂は︑ ﹁三宝﹂の概念で表される﹁法 れている︵ Shaw 2007︶︒これらのアプシダル建築は︑集会や集団礼拝を意図していたように思える︒この地域における S S P ナーガウリーに立っている︵図 ︑ Shaw 2004a: fig. 2︶︒ここではナーガは︑もともとは一対のうちの一体であったが︑主塔 話をサーンチーに戻すと︑もっとも初期の擬人化されたナーガの彫刻の一つは︑サーンチーのすぐ南にある低い丘陵︑ たちは明らかに︑新しい地域における僧団の﹁在地化﹂に重要な役割を果たしたのである︵ Cohen 1998; Bloss 1973︶︒ 礼に積極的に関与することを通じて︑仏教的伝統によって利用されるのである︒伝統的な﹁改宗﹂説話に加え︑ナーガ の水との繋がりは︑ナーガは自然的要素を操るのだという認識とも一致している︒そしてこの力はのちに︑雨乞いの儀 4 に直接的に向き合っていて︑聖遺物の守護者という伝統的な役割に応じて︑ストゥーパだけでなく二つの丘陵間の谷全 体を守っているのだと想像される︒また︑ナーガの水との伝統的な繋がりも維持されている︒というのは︑現在の位置 からすると︑サーンチーとナーガウリーの間にある大きなダムによってかさ上げされた︑古代の貯水池の縁に立ってい 152 153 1 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) たと考えられるからである︒前三世紀から前二世紀頃に年代づけられる同様のダムは︑当該地域を通じて発見されてお ︵ ︶ り︑サーンチーとナーガウリーの場合と同じように仏教遺跡に近接している︒これらは︑この地域の仏教布教における幅 ︵ ︶ ︵ ︶ る特定地域の文脈から引き出した一つのラベルを︑多くの本質的に異なる信仰主体に適用しようと試みた︑ということ るための図像的・様式的な決まりが登場するのはまったく別の現象である︒この現象が反映しているのは︑僧団がとあ 在したし︑今日においても存在しているが︑その形態はさまざまに分岐し︑地域的にも多様であった︒ナーガを表現す 教﹂という二極化した枠組みの妥当性を問題視することも必要なのである︒大蛇崇拝は古代インドを通じて疑いなく存 39 い形で信仰されていた︑といったあらゆる可能性が存在しているものの︑ナーガ論争が常に身を置く﹁仏教﹂対﹁非仏 伝統を流用したという従来の説が疑わしくなってくる︒こうした在地の神々が当初は︵木彫のような︶痕跡の残りにく の確立から二〇〇年ほどは遅れるという事実と合わせて考えれば︑インド全体において︑仏教は普遍的な既存の﹁在地﹂ および集水に対する僧団の関心を支えていた︑ということである︒この点を︑当該地域の最初期のナーガ単独像が仏教 ちは仏教の実践にとっては﹁外部﹂ではなく︑むしろ彼らを祀ることが︑在家信者による援助手段としての農業生産物 別稿︵ Shaw 2004a; 2007︶で詳しく論じた筆者の主要な論点は以下のようなことである︒すなわち︑これらのナーガた は︑この他にも当該地域を通じて発見されており︑多くの場合は前述したようなダムの上または近くにあったのである︒ 広い経済的・社会的背景に関わる仮説の中核をなすものである︒前一世紀から後六世紀に年代づけられるナーガの彫刻 38 広範な考古学的景観 ︶ インドにおける宗教的生活の多くの部分は︑場所固有の聖性に対する崇敬に基づいているのである︒この点をもっとも 組みが︵少なくとも金石併用時代以降は︶宗教的な思想・形象の何本もの糸を撚り合わせたのである︒結局のところ︑北 であったと結論付けるべきではない︒仏教の多くの部分は︑複雑な既存の宗教の枠組みから登場したのであり︑その枠 ベルでの混淆によって︑ストゥーパ遺跡における安全対策の必要性は増したであろうが︑両者の関係性が常に対立の類 オールの考古学博物館が所蔵︶は︑その街において仏教以外の信仰が重要であったことをはっきりと示している︒このレ る︵ Shaw 2004a︶︒ヴィディシャーで発見された︑ヤクシャ像およびその他の初期バラモン教彫刻の大部分︵多くはグワリ のである︒先述したナーガ彫刻の多くは︑実際にはヴァースデーヴァの兄弟神であるサンカルシャナの表現なのであ ている︒関連する神々は図像ではない形で表現されているが︑大蛇信仰と結びついて︑農村の奥地へと浸透している ド・グリーク王であるタキシラのアンティアルキダスの使節だったヘリオドロスが︑聖堂のそばに立てた柱に記され ラートラ・システムと結びついて︑凡インド的に重要であったという事実が碑文でも示されている︒この碑文は︑イン のヴァースデーヴァ神殿が存在していた︵ Khare 1967; Härtel 1987︶︒この神殿は︑バーガヴァタ派の流儀によるパーンチャ るといった事実を心に留めておかねばならないのである︒例えばヴィディシャーにおいては︑前三世紀または前二世紀 さえ︶頻繁に分裂があったことや︑仏教遺跡の中にバラモン教および非バラモン教の儀礼が行われた場所が散在してい 装置に対する抵抗があった可能性を認識しなければならないだけでなく︑仏教僧団において︵アショーカ王の時代からで 代﹂とか︑さらにはもっぱら﹁仏教的景観﹂だけに話を及ぼすのは正確ではない︒我々は︑本稿で論じたコントロール は別稿で論じている︒さらに我々は︑個々の遺跡に祀られている神格の種類を区別することができるものの︑ ﹁仏教時 ︵ る︒この大きなデータセットと︑それが在地の仏教庇護ネットワークの発展に関する議論に貢献していることについて どのように関係していたのかという問題がある︒これは︑居住域や土地利用システムの構成の中にはっきりと現れてく 重要なのはもちろんであるが︑同じように重要なこととして︑これらの諸遺跡が他の形態の経済的・社会的建造物と 丘陵上の仏教遺跡内部における空間構成と︑より広範なそれらの諸遺跡間の関係が在地の僧院史を理解するために 八 なのだろう︵ Shaw 2007︶︒ 40 154 155 41 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 明らかに例証しているのが︑郊外地域に広く見いだされる泉と貯水池である︒そうした泉の一つが︑ソーナーリのス トゥーパの下にある渓谷に位置している︒そこでは︑図像で表現されない女神の聖堂をそこかしこに見ることができ︑ それは台の上に置かれて赤く塗られた三角形の石でできているのである︒これはごく最近のものに違いないが︑その先 論 行例は非常に古いと考えられる︵ Kenoyer et al. 1983︶︒ 結 明らかな点として︑とりわけ次のようなことを述べておく必要があるだろう︒すなわち︑文献資料が︑現在まで残る モニュメントたちと一対一の関係を持つ︵さらには持ち始める︶ことはない︑ということである︒文献には︑考古学的な 用語ではもはや辿れない多くの部分があり︑同じように地上には︑文献的には確証され得ない多くの部分がある︒とり わけ︑ストゥーパが空間的な意味でどのように守られ管理されるべきか︑という点に関する特別な指示を含んだ律蔵の 資料は︑管見の限りでは存在しない︒パーリ語の律蔵はストゥーパ関連の儀礼に一切言及していない︑という事実がこ の問題の大きさを際立たせており︑このことは随分と学術的な興味を引いてきた︵ Schopen 1997: ch. 5; Hallisey 1990; Hinüber 1990; Gombrich 1990︶ ︒ここで我々は︑この特別な問題の細部に立ち入る必要はない︒差し当たって鍵となるのは︑文献 的な相関性や説明が見いだされなくとも︑筆者の主たる命題を否定する十分な理由にはならない︑ということだ︒その 命題とは︑聖遺物信仰の多くの側面は︑空間的な条件の中で行われていたということである︒中インドにあるこれらの 顕著な遺跡群や建造物群の動態は︑文献とモニュメントの研究における静的モデルのために長い間はっきりとしなかっ たが︑広範な宗教的景観の中で過去の人々がその﹁存在﹂をどのように見て︑その周囲を動き︑それに反応したのか︑ and Societies︑ Merton College, Oxford か ら 大 部 分 の 助 成 を 受 Studies︑ British Academy Board for Academy-Sponsored Institutes を考えることによって︑︵部分的にではあっても︶復元することが可能なのである︒ monasteries and relics in the landscape: typological, spatial, け た︒ 最 近 の 研 究 に つ い て は︑ British Academy Mid-Career 本論の英語原文は以下の文献である︒ Shaw, J. (2009) “Stūpas, and temporal patterns in the Sanchi area”, In Buddhist Stūpas in Fellowship︵ 2014-15︶︑ British Academy-Leverhulme Small Grant と もいく ら 儀 礼 的 モ ニ ュ メ ン ト と 世 俗 的 モ ニ ュ メ ン ト の 区 別 も︑ 以 下 の Shaw 2007を参照︒ いる︵ Agrawal 1997︶︒これらの発見に関するさらなる議論は 最 近 に な っ て︑ サ ト ダ ー ラ は 大 規 模 な 修 復 活 動 で 注 目 さ れ て も同様である︒ イソン・ホークスのプロジェクト ︵ Hawkes 2009︶ やバールフットにおけるジェ 明のプロジェクト ︵ Shimada 2009︶ かの目的を共有しており︑アマラーヴァティーにおける島田 による最近の調査︵ Fogelin 2004; 2006︶は︑ のトートラコンダ仏教遺跡周辺におけるラース・フォゲリン Willis 2002; Willis 2004︶も参照︒アーンドラ・プラデーシュ州 におけるメエラ・ダスとマイケル・ウィリスの研究 ︵ Dass and 的資料に対して﹁統合的な調査方法﹂を適用する︒ウダヤギリ 究は︑地理的環境の中にある言語学的・美術史学的・考古学 1997︶の宗教史・政治史に関する先駆的な研究がある︒この研 カ ー の ア ヨ ー デ ィ ヤ ー︵ Bakker 1986︶お よ び ラ ム テ ク︵ Bakker こ の 傾 向 に 対 す る 注 目 に 値 す る 例 外 と し て︑ ハ ン ス・ バ ッ ︵ 2016-17︶から助成を受けた︒ South Asia: Recent Archaeological, Art-Historical, and Historical Perspectives, A. Shimada, and J. Hawkes, (eds.). New Delhi: Oxford University Press, 114-145. 本論を︵変更せずに︶日本語で再掲 することを許諾いただいたオックスフォード大学出版社に謝 意 を 表 す る︒ 初 期 の イ ン ド 宗 教 考 古 学 に 関 す る 学 術 的 議 論 は︑ こ の 論 文 が 最 初 に 出 版 さ れ て 以 降︑ か な り 深 ま っ て お り︑ さ らなる議論および引用は以下に挙げる文献に見いだされる︒ ストゥーパと聖遺物信仰︑非仏教的葬送伝統との関係: Shaw 2015; 2018a. 僧 院 お よ び 僧 院 主 義 と 庇 護: Shaw 2013a; 2016; 2018b; 2018c; Sutcliffe, Shaw and Brown 2011. 広域のセトルメント・パターンと遺跡分布: Shaw 2013b. ま た︑ イ ン ド 考 古 局︑ イ ン ド 考 古 局 ボ ー パ ー ル 支 局︑ マ デ ィ ヤ・プラデーシュ州考古学・アーカイブ・博物館理事会︵ボー に 対 し︑ 御 礼 申 し 上 げ る と と も に︑ 現 地 調 査 で の 協 力 に 対 し︑ パ ー ル ︶ に よ る︑ サ ー ン チ ー 調 査 プ ロ ジ ェ ク ト へ の サ ポ ー ト R.C. Agrawal︑ S.B. Ota︑K.K. Mohammed︑ S.K. Verma の 諸 氏 に 心 か ら 謝 意 を 表 す る︒ 現 地 調 査 は Society for South Asian S S P 156 157 2 3 4 註 1 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) 点 に 大 幅 に 依 拠 し て い る︒ す な わ ち︑ 考 古 資 料 の 種 類 に よ る に言及している︒ ながらトレイナー︵ Trainor 1997: 116-7︶は︑その研究の諸相 ビガン仏教遺跡のより早期の知見については︑レイク︵ Lake コ ー ラ の 守 門 神 像︵ 図 ︶やサーンチー第一塔の門における 場 す る が︑ 仏 教 遺 跡 に お け る 初 期 の 先 行 例 と し て は︑ ピ タ ル る︒ 彼 ら は 五 世 紀 頃 に バ ラ モ ン 教 に 関 連 す る 環 境 に お い て 登 入口は守られ統制されている必要があるという考えを補強す 後代の寺院の扉に頻繁に侍する守門神︵ dvārapāla︶の像も︑出 うな階段はマワサでも発見されている︵ Shaw 2007︶︒ し て お り︑ 発 掘 が 行 わ れ れ ば 階 段 が 出 土 す る だ ろ う︒ 同 じ よ こ こ で は ア ン デ ー ル は 例 外 と な る が︑ そ の 高 台 は 完 全 に 崩 壊 ﹁神学的﹂モデルを反映している︒ 的 追 及 が 堕 落 し た 僧 団 の 印 で あ る︑ と い う 仏 教 研 究 に お け る を証明しているというハミッドの議論︵ Hamid 1940︶は︑商業 こ の 物 品 は︑ こ の 建 物 が 女 王 デ ー ヴ ィ ー の 僧 院 で あ っ た こ と ︵ Shaw 2004a; 2007︶を見よ︒ 確 実 で あ る こ と に 関 す る 批 判 的 な 議 論 に つ い て は︑ シ ョ ー ポ ス ト・ マ ウ リ ヤ 期 の 政 治 的 景 観 と シ ュ ン ガ 朝 の 出 自 が 不 および非密教的集団間の内紛によるものだろう︵同上書︶︒ ム の 脅 威 に よ る も の で は な く︑ む し ろ 僧 団 内 に お け る 密 教 的 ラ マ シ ー ラ が 一 一 世 紀 頃 に 要 塞 化 す る の は︑ お そ ら く ム ス リ 37と も 比 較 せ よ ︶︒ さ ら に︑ ア ン テ ィ チ ャ ッ ク に あ る ヴ ィ ク て 攻 撃 さ れ た の で は な い か と 記 し て い る︵ Shinha 1974-87: 2, ン ド ︶ の 僧 院 が︑ 要 塞 と の 類 似 か ら 考 え て︑ ム ス リ ム に よ っ ヴェラルディ︵ Verardi 1996: 224︶は︑ウッダンダプラ︵東イ サーンチー塔門の浮彫パネルがチャラナ・チトラス︵ charaṇa ︵ Law 1931; Misra 1981: 91-3; Irwin 1987; Van Kooji 1995︶︒また︑ 事 実 は︑ そ れ が ス ト ゥ ー パ の 祖 先 で あ る 可 能 性 を 示 唆 す る 初期のヤクシャの聖堂がチャイティヤとして言及されている ワル︵ Agrawal 1997︶を見よ︒ サ ト ダ ー ラ の 仏 教 岩 陰 遺 跡 の 壁 画 の 図 版 に つ い て は︑ ア グ ラ している︒ に高台︵ caya︶の上に建てるべきだ︑という律蔵の指示に言及 マーシャル︵ Marshall 1940: 65︶は︑建物は洪水から守るため 礎と解釈している︒ アグラワル︵ Agrawal 1997︶も︑サトダーラの高台を僧院の基 学博物館に収蔵されている︵ Shaw 2007︶︒ 1910︶を見よ︒ 本 遺 跡 か ら 出 土 し た 一 〇 世 紀 の 仏 像 は︑ 現 在 サ ー ン チ ー 考 古 州のトートラコンダ仏教遺跡の周辺で相当数が確認された︒ 同様のストゥーパは近年になって︑アーンドラ・プラデーシュ 2007︶を見よ︒ これらの遺跡の総合的なカタログについては︑ショー︵ Shaw メスケル︵ Meskell 1996︶を見よ︒ 残 存 可 能 性 の 違 い︑ あ る い は︑ モ ニ ュ メ ン ト 化 す る と い う 決 定 が 儀 礼 的 領 域 を 指 向 し て い た の か﹁ 世 俗 的 ﹂ 領 域 を 指 向 し て い た の か︑ と い っ た 諸 点 で あ る︒ そ の た め ア ン ド リ ュ ー・ ト は セ ト ル メ ン ト 考 古 学 の 演 習 で あ る と 同 時 に︑ 儀 礼 的 景 観 シェラット︵ Sherratt 1996: 149︶は︑﹁すべての地域プロジェク の調査でもある﹂と提起した︒ 究︵ Barrett 1990︶を参照︒ こ の 問 題 を 正 そ う と い う 試 み と し て は︑ 例 え ば バ レ ッ ト の 研 べき現象がむしろ少ないことによって創案されたことは興味 ﹁現象学的な考古学﹂が﹁現象学的な不自由﹂︑すなわち研究す 有用な要約としては︑ブラウン (Brown 1986) を参照︒ 深い皮肉である︒ ベ ン タ ー︵ Bentor 1996︶ は 儀 礼 の 詳 細 な 説 明 を 提 示 す る が︑ 肝 心 の ス ト ゥ ー パ は 背 後 に 押 し や ら れ︑ こ の 論 文 に は 一 基 の ストゥーパのイラストも図面も存在しない︒ ト レ イ ナ ー の 関 心 事 の い く つ か は︑ そ の 要 素 を バ レ ッ ト の ﹁行動の考古学﹂と共有しているが︑彼は南アジア考古学以外 ショペン︵ Schopen 1987a: 193-4; 1997: 114ff︶を参照︒ におけるこれらの広範な理論的動向には言及していない︒ 同様の批判としては︑コニンガム︵ Coningham 1998︶を見よ︒ 南アジアにおいてはダンカン︵ Duncan 1990︶を参照︒しかし chitras︶︑ す な わ ち 絵 巻 物 に 基 づ い て い る と い う 提 言 も あ る︒ そ れ ら を 公 に 開 示 す る こ と は︑ 禁 じ ら れ た 丘 陵 上 の 祭 祀 に お ﹃相応部 Saṃyutta Nikāya﹄や﹃実利論﹄のような文献によれば︑ いて不可欠の構成要素であった︵ Ray 1945: 69︶︒ で あ る 観 音 が︑﹁ 聖 遺 物 ま た は 丘 陵 の 神 々 に 対 す る 古 い 信 仰 こ の 主 題 が の ち の 時 代 ま で 続 く こ と に つ い て は︑ 大 乗 の 尊 格 の復活﹂として一般的には丘陵の上に設置されるという理論 によって提示されている︵ Getty 1914: 55︶︒観音像は︑サーン チーにおいては五世紀以降に大量に登場する︒ カ ニ ン ガ ム も 同 様 の 観 察 を 行 っ た︵ Cunningham 1854: 342︶︒ 彼 は 繰 り 返 し︑ そ の 景 観 の 中 の 一 番 高 い 場 所 か ら 何 が 見 え る のかをコメントしていた︒ inscription no. 396︶は︑実際に五無間業を書き出している︒す 東 側 出 入 口 に あ る 同 じ よ う な 文 言 の 碑 文︵ Marshall 1940: ︑父親殺し︵ pitughato︶ ︑阿 羅 漢 なわち︑母親殺し︵ matughato︶ 僧団を分裂させること︵ samghabhedo︶である︒ ︑仏身から血を出させること︵ lohituppado︶ ︑ 殺し︵ arahamtaghato︶ ロ ハ ン ギ 丘 に お け る 天 然 の 要 害 が 仏 教 と 関 連 す る 可 能 性 と︑ 前二世紀の柱の痕跡についてはショー︵ Shaw 2007︶を見よ︒ こ れ ら の 建 造 物 は 両 方 と も︑ ア ン テ ィ チ ャ ッ ク に あ る 一 一 世 紀のヴィクラマシーラ︵ Indian Archaeology 1972-73−A Review: 5, Fig. 1︶と似た平面プランになっている︒ 4 158 159 14 13 16 15 17 18 19 20 21 27 28 29 30 31 5 7 6 8 9 12 11 10 22 23 24 25 26 初期仏教の時代 Ⅰ 景観の中のストゥーパ・僧院・聖遺物(ジュリア・ショー) と え 少 々 離 れ て い て も︑ 中 央 の ス ト ゥ ー パ に 向 い て 入 口 を 開 ショペン︵ Schopen 1997: 258ff︶は︑初期の僧院の建造物はた 一世紀のヤクシャ像などが挙げられる︒ ては︑ファルク︵ Falk 1977: 290︶を見よ︒ による精神的果報が経典において承認されていることについ あ る 部 分 を 守 る 守 護 者 と 見 な さ れ る べ き で あ る︒ ま た︑ 右 繞 この文脈では︑大蛇︵ナーガ︶は︑ストゥーパのもっとも価値 の下方に を参照︒ Society, 1963) Commentary, 7 vols. London: Trübner. (reprint London: Pali Text 註 ては︑ダルトン︵ Dalton 1993: 425︶を見よ︒ 一〇世紀のチベットにおいて同様の経過があったことについ える助けとなる︒ で あ り︑ 仏 教 の 中 に 受 動 的 に 吸 収 さ れ た と い う 考 え に 異 を 唱 1938: 52-4︶の両者は︑ナーガが仏教にとって土着の﹁他人﹂ ムによって付設されたという考えが裏付けられることになる 在地の農業共同体との間にあった同じような相互交流システ 似 し て い る こ と か ら す れ ば︑ サ ー ン チ ー の ダ ム は 仏 教 僧 侶 と れ て い る が︑ そ の ス リ ラ ン カ に お け る 遺 跡 間 の パ タ ー ン と 類 で は︑ 前 二 世 紀 以 降 に 僧 院 が 地 主 と な る 制 度 の 存 在 が 確 認 さ ま り の 中 の 一 要 素 で あ っ た︑ と い う こ と で あ る︒ ス リ ラ ン カ の 揺 籃 期 以 来︑ 仏 教 の 拡 散 と 都 市 化 を 伴 う 広 範 な 文 化 的 ま と 建 造 さ れ た と い う こ と︑ そ し て ガ ン ジ ス 渓 谷 に お い て は︑ そ 増 加 へ の 対 応 と し て︑ 主 に 米 作 用 の 灌 漑 網 を 提 供 す る た め に の ダ ム は︑ 居 住 址 お よ び 仏 教 遺 跡 の 分 布 か ら 示 唆 さ れ る 人 口 主 要 な 論 点 は︑ 以 下 の よ う な も の で あ る︒ す な わ ち︑ こ れ ら 例えば︑ Dātha-vaṃsa, 4: 28-37を参照︒ が挙げられる︒ ガのカーリヤをクリシュナが退治する話︵ Viṣṇu Purāna︶など る蛇をガルダが打ち負かす話︵ Mahābhārata, I, 5: 29︶や︑ナー 火 神 堂 内 毒 龍 調 伏 と よ く 似 た 物 語 と し て︑ 不 老 不 死 の 薬 を 守 論している︒ ウィリス︵ Willis 2000: 66︶は︑頂上へと導く歩道について議 け る 傾 向 が あ る と 指 摘 し て い る︒ そ の 後︑ ス ト ゥ ー パ は 僧 院 の 境 内 の 中 央 に 位 置 す る よ う に な り︑ 結 果 と し て 出 家 者 の 個 参考文献一覧 Arthaśāstra. 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