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■ 特集論文 KazuoI s h i g u r o ,N e v e rL e tMeGoが示す想像力による抵抗の可能性 三村尚央 NEWPERSPECTIVE (新英米文学研究) 2018年 7月 1 5日発行 207号 抜 刷 新英米文学会 ■ 特集論文 KazuoI s h i g u r o ,NeverL e tMeGoが示す想像力による抵抗の可能性 三村尚央 序 浸ることを自分に許したキャシーはノーフォー カズオ・イシグロ (KazuoI s h i g u r o ) の「わ クに向かう。そこはすべてのなくした物がたど たしを離さないで』 ( N e v e rL e tMeG o ,2 0 0 5 )で り着く「ロスト・コーナー」であることが作品 目を引くのは、その作品世界を取り巻く陰鬱な 内で何度も言及されている。 閉塞感である。主人公であるクローンたちは死 キャシーはそこで半分目を閉じて、 トミーの ぬまで臓器を提供し統けるという運命から決し ことを束の間空想する。そこは柵をへだてて て逃れることはできない。 「耕された大地 ( p l o u g h e de a r t h )」 ( N e v e r2 8 1 ) この作品にしばしば向けられる、「クローン が見える場所で、柵にはゴミが引っかかってい 達はなぜ逃げないのか」という疑問に対してイ るという非常に象徴的な場面である。柵によっ シグロは「私は人物たちが人生における運命に て囲まれたヘールシャムを出たキャシーたち 反抗したり逃げたりする物語よりも、それを受 は、逃げることのできない別のヘールシャム的 け入れる物語の方に興味を引かれる」 ( S h a f f e r 世界に入るにすぎず、最終的にはやはり柵に 2 1 5 ‑ 1 6 ) と発言しているが、そのような彼らの よって隔てられた場所へとたどりついただけで 状況を作品中で効果的に表わすものの一つが柵 あった。 という表象であることはすぐに見て取れる。 柵の表象はヘールシャムを取り囲むものをは 何エーカーもの耕された大地を前に立って じめとして本作で何度も繰り返されるモチーフ いました。柵があり、有剌鉄線が二本張ら で、どこまで行っても柵という境界に突き当た れ、わたしの立ち入りを禁じています。見 る様子は、クローンたちを取り巻く閉塞感を効 渡すと、数マイル四方、吹いてくる風を妨 果的に表現している。ヘールシャムの柵は生徒 げるものは、この柵と、わたしの頭上にそ たちにとって決して頭を離れることのないもの びえる数本の木しかありません。柵のいた であり、不気味な存在として彼らの想像力を刺 るところに―とくに下側の有刺鉄線に一 激し続けていた。柵をめぐるおぞましい神話も ーありとあらゆるごみが引っかかり、絡み いくつか生み出されており、そこを超えようと ついていました。 ( N e v e r2 8 1 ‑ 8 2 )1 したものが迎えた悲劇的な最期について彼らが この場面で特徴的なのは、ヘールシャムを出た めぐらすいくつもの噂話さえあった。 そして語り手のキャシーは物語の結末部でも キャシーが最後に到達したのが柵だということ やはり柵によってそれ以上先に行くことを阻ま だけではなく、その向こうに置かれているのが れる。友人のトミーを失い、その思い出に一時 畑だという点である。 ‑48‑ 本稿の目的は、この象徴的な結末場面が、本作 が用いられているのは注目に値する。臓器を摘 の陰鬱なデイストピア的雰囲気を醸し出す基本 出する際には一般的に用いられる語であるが、 構造を表わしていると示すことである。つまり この作品におけるクローン達の実情を考えると クローンたちがただ柵に囲まれているというだ 皮肉な表現だといえる。畑の野菜と違って彼ら けではなく、この場面でのキャシーが畑という の臓器は一度摘まれたら、次は生えてくること 豊かな実りの場からも遠ざけられていることが はないうえに、彼らはクローンではない「普通 作品全体のなかで持つ意味を考察していく。 の人々」とはちがって、赤ん坊を生み出す再 生産の能力 ( f e r t i l i t y ) を管理者によって奪われ 1 生殖という豊穣さから隔てられていること ている。つまり、彼らは家畜や工業製品のよう 柵をへだててキャシーが前にする耕地 に品質管理される対象物であり、その祭殖(増 ( p l o u g h e de a r t h ) は植物が自生する手つかずの 産)は彼ら自身にはゆだねられていないのであ 荒野ではなく、人の手によって耕された畑であ る 。 り、野菜が伸び伸びと豊かに育つことのできる 学校を模した施設であるヘールシャムでは生 豊かな生育環境が整えてあることが連想され 徒たちへの教育の一環として性教育も行なわれ る 。 そして有刺鉄線によってそこから隔てら ているが、これは一般的な意味での性教育とは れているキャシーの様子は、自然な生殖ではな 異なっている。というのもクローンたちは自分 く人の手によって臓器移植のためだけに創りだ たちで子供を作ることができないからである。 されたクローンである彼女の状況と強烈な対比 彼らにはセックスが奨励されているが、その理 を作りだす。つまり、柵に隔てられたゆたかな 由は、「臓器を健康に保っておくため」 ( N e v e r 実りを約束された農地と、そこに入ることので 9 4 ) と説明される。しかし物語を注意深く読む きないクローンとしての彼女の過酷で殺伐とし と、実際には健康な臓器のためという以上に、 た環境である。彼女が前にする農地は、そこに この「次世代を産む」という再生産能力がク まかれた種からたくさんの野菜を生み出すこと ローンたちから奪われているのが重要であるこ のできる盟穣さを秘めた場である。そして、そ とが分かる。 2 のような場からキャシーが隔てられていること は、クローンであるキャシーたちが次世代を産 あなた方には、知ってのとおり赤ん坊が生 み出してゆく再生産のサイクルから遠ざけられ まれません。それでも、外の世界で生活す ていることを思い起こさせる。 るかぎり、周囲と同じように振る舞わなけ この作品をめぐる興味深い現象として、臓器 ればなりません。 ( N e v e r8 2 ) 移植のために作りだされたクローンたちの生育 に言及する際に、エイプラムスやカスクのよう つまりこの物語内では、クローンたちへの生物 な論者たちが、当時はまだ記憶に新しかったク 学的管理が作用する領域として、子供を産む能 ローン羊のドリーに触れながら、鹿業や畜産 力にも焦点が当てられており、クローンたちは のメタファーで語っていることが挙げられる 慎重に相手を選びさえすれば肉体関係を持つこ (Abrams4 2 ,C u s k ,T a i t )。そのなかで臓器を取り とは許されているが、自由に次世代を産み出す 出すことを表現するために " h a r v e s t "という語 ことはできないように処置されている。「普通 ‑49‑ の人々」には許されている生物学的な摂理であ がら、「普通の人々」には本来備わっているは る、セックスによる生殖がクローンからは奪わ ず(と物語内で想定されている)の、セックス れていることをわざわざ伝えるこの場面には、 によって子供を作るという「自然」な能力が、 彼らの不自由な生存条件が顕著に表われてい クローンからは奪われていることが物語上で持 る 。 つ意義をより詳しく考察してゆく。このような クローンたちは子供を作れないという「わ 点から見てゆくことで、自分たちの宿命から逃 たしを離さないで j の設定に、セクシュアリ げることなく、それを無抵抗に受け入れている ティとジェンダーの観点から注目するのはレイ ように思われるクローンが、実は自分たちを取 チェル・キャロル ( R a c h e lC a r r o l l ) である。ク り巻く状況へと想像的に働きかけている可能性 ローンたちに課されたこの条件は、彼らの集合 を見て取れるようになる。 的アイデンテイティが「普通の人」とは違う ことを物語内で明示するための重要な要素で あると彼女は「異性愛を読み直す」 ( R e r e a d i n g 2 想像的な赤ん坊を抱くという「抵抗」 管理する側に立つ保護官たちが、クローンに H e t e r o s e x u a l i t y ) で主張する。そしてクローン はセックスによって自由に赤ちゃんを産む生殖 たちは生殖能力を持たないにもかかわらず、彼 能力が欠けていると強調していることは、ク らがセックスの重要性を教えられていること ローンから自主性や自発性が奪われていること は、彼らのセクシュアリテイが普通の人々の を典型的に示している。そしてクローンが自然 「粗末な模倣」 ( 1 4 1 ) でしかないことを示すと な生殖によって産まれる存在でないことは、彼 指摘する。 このような彼女の主張は、上の引 らが何者かによって作りだされなくてはならな 用での「周囲と同じように振舞わなくてはなら いという、権力関係を含意してもいる。つまり ない」と保護官が発言していながら、クローン 彼らは臓器を提供し続ける運命から逃れられな に対して不安を感じていることによっても補強 いというだけでなく、自らの存在の根底を、カ される。 を持つ他者に握られている。 3 クローン達を権力によって搾取される弱い存 普通の人にとって、セックスは赤ん坊を作 在のメタファーと見る解釈は「わたしを離さな るためのもの。[保護官たちは]わたした いで』を論じる文献でもしばしば取り上げられ ちに赤ん坊ができないことが頭でわかって ている。なかでも興味深いのは、 1 9 9 0年代末 いても、いまひとつ信じきれず、だから、 の架空のイングランドに設定された本作を現 セックスされると不安になるのだ、と。 代的な福祉国家体制や新自由主義的な競争や管 ( N e v e r9 4 ‑ 9 5 ) 理との関係において読み解こうとするリサ・フ ルエット ( L i s aF l u e t ) やプルース・ロビンズ クローンたちによる「模倣」は両者のあいだの ( B r u c eR o b b i n s ) の論考である。 隔たりを縮めるのではなく、彼らが熱心に行え フルエットは、親のいないクローンたちは孤 ば行うほど、その存在を厳然と示すようにはた 児のような存在だが、彼らはまった<孤独な個 らくのである。 別的存在なのではなく、彼らを管理する上位権 次節では、このような彼女の指摘を参照しな 力が存在している(たとえ明確な国家体制とし ‑50‑ てではなくても)ことを強調する。そして彼ら 聞きながら、いつも一人の女性を思い浮か は共同体内での自分の位置づけを確保するため べました。死ぬほど赤ちゃんが欲しいの に個人間での競争を運命づけられていることを に、産めないと言われています。でも、あ 指摘している ( F l u e t2 7 9 )。 るとき奇蹟が起こり、赤ちゃんが生まれま す。その人は赤ちゃんを胸に抱き締め、部 ロピンズは『上昇志向」 (UpwardM o b i l i t y ) の中で、ヘールシャムの仕組みが現代イギリス 屋の中を歩きながら、「オー、ベイビー、 の社会が長らく基盤としてきた福祉国家制度と ベイピー、わたしを離さないで」と歌うの 関連するものであることを論じている。そし です。もちろん、幸せで胸がいつばいだっ て、グローバル化の進んだ世界の中で自主的に たからですが、どこかに一抹の不安があり 判断して行動しているように見えるクローンた ます。 ( N e v e r7 0 ) ちも、実際は権力側によって統制されており、 常に「ゆきすぎない」ように管理されているの そして彼女が踊る姿は、ヘールシャムを統括す だと論じる。その中にはクローンが体制を脅か るマダムに偶然見られており、彼女が涙を流し す可能性となる怒りの制御 ( a n g e rmanagement) ていたことにキャシーはとまどう。 も含まれていると論じている ( R o b b i n s2 0 6 ‑ 0 8 )。 ま た 、 シ ャ ミ ー ム ・ プ ラ ッ ク (Shameem 曲が終わる直前でした。何かを感じ、部屋 B l a c k ) はクローンたちが「イギリスの階級社 に誰かいるような気がして、ふと目を開け 会のグロテスクな再現」であるだけでなく、 ました。すると、目の前にある戸口の向こ 「グローバル・メタファー」という、「国家やグ うに、マダムが立っていたではありません ローバル経済システムの中での不均衡や搾取」 か。[……]そして・ ・・・・・泣いていたので を暗示するものでもあると指摘している ( B l a c k す 。 ( N e v e r7 1 ) 7 9 6 )。 クローンが子供を産めなくされていること 管理する側の人間であるマダムに対して、想像 を、権力側による自由と自主性の頷奪と見るな の中とはいえ禁じられている赤ん坊を抱いてい ら、「わたしを離さないで」という曲にあわせ る姿を見せることは、すべてを管理されている てキャシーが踊る場面のように、クローン達が 状況に真正面から立ち向かって転覆しようとす 想像的にでも赤ん坊を持とうとする行為は、彼 るのではなく、権力側による管理の隙をつい 女たちを縛る管理体制に対する反抗の意志を、 た、キャシーにかろうじて行うことのできる抵 逃亡や暴動という明白な行動とはちがう形で示 抗だといえるだろう。 すものと見ることもできるだろう。キャシーは 歌の歌詞を完全に理解しているわけではなく彼 3 農場と想像上の動物たち 女なりのファンタジーを交えながらその世界を このようなクローンたちが赤ん坊を持つ能力 創造している。その中では長らく子供のできな の媒奪とそれに対するクローン側の想像的な かった女性が奇跡的に子宝に恵まれて、その子 抵抗は、本論の冒頭で確認した、キャシーが 供を抱きながら「わたしを置いてゆかないで」 柵で開てられる耕地とそれが喚起する肥沃さ と懇願する。 ( f e r t i l i t y ) に象徴される、生殖による再生産能 ‑51‑ カの問題と関わっている。そしてこのような権 れていました。でも、紙から顔を遠ざける 力側によるクローンの権利や自由の管理と、そ と、それは確かにアルマジロに似た動物 れに対する想像的な抵抗は、彼らがヘールシャ であったり、鳥であったりします。 (Never ムを出たあとに入るコテージ ( C o t t a g e ) でも 1 8 4 ‑ 8 5 ) 行なわれる。 無機的で機械的なものが生物のように見えて コテージは、何年も前に廃業した農場を利 くることをプラックは本作でのクローンと普 用した施設でした。古びた母屋があり、そ 通の人間という対比と関連させて考察してい の周りに離れ家・納屋・畜舎があって、ど る。そしてこうした対比が、本作における「人 れも人が住めるように改築されていまし 間」と「人間未満の存在」あるいは「機械的な た 。 (Never1 1 4 ) もの」と「生命」との境界は、常に揺らいでい る不安定なものであることを暗示するだけでな コテージという名称やその環境は、読者に否応 く、我々人間の中に、「機械的で、製造され、 なく家畜たちの繁殖を想起させるものであり、 複製された、伝統的な意味では非人間的部分」 クローンたちが家畜のように生産管理されてい ( B l a c k7 8 6 ) があることを暴露しているのだと るというだけでなく、赤ん坊の産まれない彼ら 指摘する。 のセックスに典型的に表われているように、自 主的に繁殖できない事実とも符合する。 そしてトミーが「できるだけ小さく書くこと で勝手に生命を持ってくるかのようだ」 (Never そしてヘールシャムでキャシーが行なってい 1 7 6 ) と説明するように、繁殖能力を奪われて た想像の赤ん坊のような、権力による管理に いるクローンたちにとって、想像的にではあれ 対する想像的抵抗はコテージでも行なわれる。 生命を持つかのようにリアルな動物を生み出す それがトミーの描く想像的な動物 ( i m a g i n a r y ことは、彼らを取りまく権力の網に対する精一 a n i m a l ) である。動物の自由な繁殖の禁止にも 杯の抵抗だということもできるだろう。 とづく家畜の生産管理を喚起するコテージで、 トミーの絵についてのもう一つの印象的な点 トミーは動物の絵を描くことに目覚めて没頭す が、彼は何のためでもなく、ただそれに没頭し る 。 ているのだとわざわざ強調していることであ トミーから絵を見せられたキャシーは、は る。絵を描くことについて、彼は提供の延期の じめは何か機械的なものである印象を持つが、 ためだけではなく、「描いてるのがただ楽しい 徐々にそれらが動物であるように見えてくる。 からだ」 ( N e v e r1 8 6 ) とキャシーに説明する。 何気ない発言であるが、これまで本稿で展開し まず、動物であるとわかるまでに、多少の ている、体制による管理に対する被支配者側か 時間がかかりました。わたしの受けた第一 らの抵抗という点から見ると、絵を描くなどの 印象はラジオです。裏板をはずして、中 技術の追求が重要性を帯びるからである。 を覗き込んだところ、とでも言いましょう 社会学者のリチャード・セネットは高度な技 か。細い管、うねるリード線、極小のねじ 術を必要とする手仕事が、あらゆるものを商品 と歯車が、これでもかという精密さで描か として管理し、流通させてしまう資本主義社会 ‑52‑ のなかで、その流れを停滞させるという重要な 他のものにとっては「こだわりすぎ」で結果的 役割を果たすと主張する。 には迅速な組織進行の邪麿になってしまう(セ 「わたしを離さないで」で主な焦点を当てら ネット 1 1 0 ) というわけである。 れるクローンたちの世界の向こう側には、普通 典場での管理された繁殖を想起させるコテー の人間の世界が広がっているが、すでに言及し ジで描かれる細密なトミーの絵も、ヘールシャ た論者によれば、その構図は現代の階級社会や ムで赤ん坊をイメージしながら踊るキャシーの グローバル経済における不均衡を反映すると ように、主体性を奪われた不自由な環境の中で 考えることができる。そこに表われるのは、ク の想像的な抵抗活動の一つだと見ることがで ローンに象徴される社会的弱者が体制側に搾取 きる。そして、はじめは無機的な機械のようだ されている構造である。そしてセネットによれ が、次第に生き物のように見えてくるまで描き ば、職人的な「こだわり」は、このように弱い 込む彼のこだわりは、管理者側に奪われてし 立場の者たちを搾取する、管理者側の合理性を まった生命を生みだす能力を、想像力の中では 停滞させる可能性を持っているのである。彼は あれ取り戻すだけでなく、彼らから効率的に臓 職人技の定義とは「それ自体を上手く行なうこ 器を刈り取ろう ( " h a r v e s t " ) とする行程を止め とを目的として何事かを行なうこと」(セネッ ることはできなくとも、停滞させる可能性を示 ト 1 0 7 ) と論じる。つまり職人気質の注目す 唆している。 べき特質とは、「充足感」や「よい製品」を得 るために、彼らが持つ「こだわり」なのだと指 摘する。 4 結語 本稿は「わたしを離さないで」の最終場面で の柵によって~ か ら 隔 て ら れ た キ ャ シ ー の 姿 職人技は「柔軟な」資本主義組織にとって が、作品世界を形づくっている潜在的な構造を はあつかいづらい存在だ。問題はわれわれ 表わすものとして考察してきた。、J : I Bが間接的に がおこなった定義の一部、すなわち、それ 暗示するのは豊かな実りであり、彼女がそこか 自体を目的として何ごとかをおこなうとい ら遠ざけられていることは、それまで作品内で う部分である。うまくおこなうための理解 繰り返し言及されてきた、クローンたちは七ッ が深まれば深まるほど、やり方が大切にな クスによって自由に子供を作る能力が奪われて る。[……]「柔軟な」組織が恐れるのはま いるという事実を象徴的に表わすものであると さにこうした深さなのだ。(セネット 1 0 9 ) 本稿では示してきた。 クローンは自らの運命から逃れようとあがく つまり、製作のスピードではなく完成度を求め こともなく、それに従っているように見えるか る姿勢が、効率的で柔軟な働きを求める資本主 もしれない。しかし、あらゆる自由を奪われて 義組織にとって扱いづらいものとなる。上の引 いるように見える彼らも想像力の中では自らの 用でセネットが述べるこだわりの「深さ」は、 自由を取り戻す抵抗を試みている。「わたしを 効率的に素早く個人を搾取しようとする組織に 離さないで」にあわせて踊るキャシーが、現実 とっては脅威なのである。すなわち作業それ自 的には決して持つことのできない赤ん坊を心の 体に時間を費やして深入りしすぎる者は、その 中で抱く姿や、典場の動物のように管理された ‑53‑ 環境の中でトミーが描き出す、生命を持ってい を「普通」で「自然」なものと見なしてい るかのように活き活きとした動物たちは、状況 るからだと主張する ( C a r r o l l1 3I )。たしか から逃亡することだけが抵抗活動ではないこと に本作では同性愛が「アンプレラ・セック を示してくれているのである。 ス 」 ( N e v e r9 4 ) という隠語で呼ばれ、そ れに対する嫌悪と禁止が描かれている。そ れを異性愛規範の裏返しであるかのように 見ることも可能だろう。本稿はクローンた 注 日本語訳は邦訳版を参照したが、必要に応 ちが生殖能力を奪われていることが作品中 じて改変している。 で持つ意味に着目しているが、それがキャ 2 柵で隔てられた場所にある肥沃な耕地とい ロルのように異性愛を規範的なものと見な うモチーフは、柵で囲われた土地が「庭= すこと ( h e t e r o n o r m a t i v i t y ) にまで及んで 楽園」を意味するイギリス文学の伝統の一 いるかという点には踏み込んでいないこと つであることとも関連性があるように思わ を確認しておく。 れる。この分野の主要な研究成果である 川崎寿彦「庭のイングランド」や安西信 引用参照文献 ‑「イギリス風景式庭園の美学一「開か Abrams,R o b e r tC ."KazuoI s h i g u r o ' sNeverL e tMe れた庭」のパラドクス」によれば、もと G o :A Modelof'Completion'fort h eEndof もとが「柵で囲われた土地」を意味する L i f e . "M e d i c a lH u m a n i t i e s ,v o l .4 2 ,n o .I ,M a r . 庭 ( g a r d e n ) は楽園 ( p a r a d i s e ) と結び付け 2 0 1 6 ,p p .4 2 ‑ 4 5 . られてきた。そして、理想的な庭、すなわ B l a c k ,Shameem." l s h i g u r o ' sInhumanA e s t h e t i c s . " ち楽園では「自発的豊穣性(スポンテ・ス ModernF i c t i o nS t u d i e s ,v o l .5 5 ,n o . 4 ,W i n t e r ア)」(川崎 2 6 ) が強調されている。楽園 2 0 0 9 ,p p .7 8 5 ‑ 8 0 7 . 表象では、果物や野菜がたわわに実ってい C a r r o l l ,Rachel.RereadingH e t e r o s e x u a l i t y . ることが典型的な特徴のひとつだが、それ F e m i n i s m ,QueerTheoryandContemporary はつきつめれば、次の世代が豊かに生み出 F i c t i o n .E d i n b u r g hU P ,2 0 1 2 . C u s k ,R a c h e l ." R e r e a d i n g :NeverL e tMeGoby され続ける繁殖能力だといえるだろう。 3 キャシーが最終的にたどりつく場所で、 KazuoI s h i g u r o . "Guardian.29J a n .2 0 1 1 , 柵に隔てられた向こう側に豊かな実りを想 www.theguardian.com/books/20l1 / j a n / 2 9 / 起させる畑が置かれていることは、本作を n e v e r ‑ l e t ‑ m e ‑ g o ‑ k a z u o ‑ i s h i g u r o . このようなイギリス文学の伝統とも比較し F l u e t ,L i s a ." I m m a t e r i a lL a b o r s :I s h i g u r o ,C l a s s ,a n d ながら考察する可能性も示唆しているよう A f f e c t . "N o v e l .Summer2 0 0 7 ,p p .2 6 5 ‑ 2 8 8 . に思われる。 I s h i g u r o ,K a z u o .NeverL e tMeG o .F a b e r ,2 0 0 5 . キャロルは科学技術によって生みだされ R o b b i n s ,B r u c e .UpwardM o b i l i t yandt h eCommon た『わたしを離さないで』のクローンたち Good:TowardaL i t e r a r yH i s t o r yoft h eW e l f a r e が「普通ではない」存在と想定されている S t a t e .P r i n c e t o nU P ,2 0 0 7 . ことを、本作の作品世界が基本的に異性愛 S h a f f e r , BrianandCynthiaWong, e d i t o r s . ‑54‑ C o n v e r s a t i o n sw i t hKazuoI s h i g u r o .UPo f M i s s i s s i p p i ,2 0 0 8 . T a i t ,T h e o ."As i n i s t e rh a r v e s t . "TheT e l e g r a p h ,1 3 Mar.2 0 0 5 ,w w w . t e l e g r a p h . e o . u k / c u l t u r e / b o o k s / 3 6 38 2 4 2 / A ‑ s i n i s t e r ‑ h a r v e s t . h t m. I 安西信ー「イギリス風景式庭園の美学一「開 かれた庭」のパラドックス」東京大学出版 会 、 2 000年 。 川崎寿彦「庭のイングランド』名古屋大学出版 会 、 1 9 8 3年 。 高山宏「庭の綺想学」ありな書房、 1 9 9 5年 。 イシグロ.カズオ.「わたしを離さないで』土 屋政雄訳早川書房、 2 0 0 8年 。 セネット.リチャード.「不安な経済 /i 累流す る個人」森田典正訳大月書店、 2 0 0 8年 。 ‑55‑