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厳島神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎮火祭から転送)
厳島神社
(嚴島神社)


大鳥居(上)と社殿(下)
所在地 広島県廿日市市宮島町1-1
位置 北緯34度17分45.68秒 東経132度19分11.62秒 / 北緯34.2960222度 東経132.3198944度 / 34.2960222; 132.3198944座標: 北緯34度17分45.68秒 東経132度19分11.62秒 / 北緯34.2960222度 東経132.3198944度 / 34.2960222; 132.3198944
主祭神 市杵島姫命
田心姫命
湍津姫命
神体 弥山神体山
社格 式内社名神大
安芸国一宮
官幣中社
別表神社
創建 (伝)推古天皇元年(593年
本殿の様式 両流造檜皮葺
別名 伊都岐島神社
例祭 旧暦6月17日管絃祭
地図
厳島神社 (嚴島神社)の位置(広島県内)
厳島神社 (嚴島神社)
厳島神社
(嚴島神社)
地図
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境内 全景(弥山中腹より)
2016年G7広島外相会合における平舞台での雅楽。

厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社[1])は、広島県廿日市市厳島(宮島)にある神社式内社名神大社)、安芸国一宮旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。

古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。

1996年平成8年)12月にユネスコ世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている[2]

概要

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広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。

厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つ[* 1]に数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居重要文化財)は日本三大鳥居の1つ[* 2]である。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。

祭神

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祭神は次の3柱[3]。3柱は「宗像三女神」と総称される。

市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つ[* 3]とされている。

歴史

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創建

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社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことが始まりとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。

厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源[* 4]のように、古代から島そのものがとして信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる。

概史

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文献での初出は、弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事である。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。その頃には神職は佐伯氏が掌握した。この社格が昇っていく過程で祭神が整備されていったと考えられており、祭神の市杵島姫命が明記されるのは『一宮記』以降になる。

平清盛肖像
神仏習合時代の「厳島女」(七面天女)。葛飾為斎・画

平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた[* 5]。平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものである。

厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる[4]

戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現:千畳閣)の造営を行なっている。

江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。

明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。厳島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴したことによって社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われた。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。

明治4年(1871年近代社格制度において国幣中社に列し、1911年(明治44年)に官幣中社に昇格した。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された(このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ千木と鰹木が写っている)。

神階

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神職

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神紋「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」

厳島神主家参照。飛鳥時代に厳島神社を創建したとされる佐伯鞍職に始まり、文献に記載のない期間を経て平安時代以降は代々佐伯氏が世襲したことが分かっている。平安時代末期には佐伯景弘平家一門と結んで繁栄を見せた。

鎌倉時代に入り承久の乱では後鳥羽上皇側として活動したため、佐伯氏は神主家当主の座を降り藤原親実が新たな厳島神主家となった。その後の佐伯氏は厳島神社の神官として活動する。瑞渓周鳳の『臥雲日件録』1465年寛正6年)6月18日条に「日本所謂三大宮司、盖厳島・熱田・富士之三所也」とあり、厳島神社の大宮司は熱田大宮司富士大宮司と共に日本三大宮司に数えられている[5]

以後、藤原氏が戦国時代に滅亡するまで神主家を務めた。藤原氏滅亡後は佐伯氏が復権し現在に至っている。

近年の自然災害

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社殿は海の上に建てられているため、台風・高潮の影響・被害を受けるのは宿命的であり、床の木材の隙間を空けて敷くなどの対策を取っているが、それでも大型の台風が直撃した際には倒壊などの被害を受けることがある。しかし、そのたびに大規模な修復を行っており、修復することを前提に建てられた社殿であるといえる。

  • 1991年平成3年)、台風19号 - 重要文化財の「能舞台」が倒壊。桧皮葺の屋根も大きな被害。
  • 1999年(平成11年)、台風18号 - 国宝の「神社」及び「社殿」が大きな被害。
  • 2004年(平成16年)、台風18号 - 国宝附指定の「左楽房」が倒壊。桧皮葺の屋根も被害。
  • 2012年(平成24年)4月3日 - 暴風で大鳥居の檜皮屋を覆う銅板に被害。

社殿

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境内 遠景
社殿は寝殿造を神社建築に応用したもの[4]

概要

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大鳥居と社殿(海側から)
左右門客神社(左)、左楽房(右)、背景は五重塔
五重塔

厳島神社の主要な社殿は、厳島の北部、大野瀬戸に面した有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥に建つ。湾のもっとも奥まったところに宗像三女神を祀る本社が北(厳密には北西)を正面として建つ。本社社殿は奥の本殿と手前の拝殿の間を幣殿でつないで全体を1棟とする形式であり、拝殿の手前には祓殿(はらいでん)が建つ。祓殿のさらに手前(海側)には「高舞台」と呼ばれる高欄付の舞台があり、舞楽の奉納などに使用される。その周囲の屋根がない板敷の部分を「平舞台」という。平舞台に接して、左右の門客神社(かどまろうどじんじゃ)、左右の楽房などの小建物が建つ。平舞台のもっとも海側は桟橋状に細く突き出ており、この部分を「火焼先」(ひたさき)と称する。「火焼先」の延長線上には海中に大鳥居が建つ。祓殿の側面からは左右に屈折する廻廊(東廻廊、西廻廊)が伸び、厳島神社特有の景観を形成している。東廻廊の途中、湾の東側には、摂社客神社(まろうどじんじゃ)が西を正面として建つ。客神社も本社と同様に本殿・幣殿・拝殿・祓殿から成るが、社殿の規模は本社より小さい。以上の建物の大部分は海域に建っており、満潮時には建物が海上に浮かんでいるように見える。このような立地にもかかわらず、各建物には何か特殊な建築技法が使われているわけではなく、浅い海底に地上の建物と同様に礎石を据え、杭(束)を立て、その上に板床を張っている[6]。木製の杭は満潮時には海水に浸かるため腐食をまぬがれず、定期的に点検を行って、腐食が判明した場合は根継ぎを行っている(平舞台のように、石造の杭を用いている部分もある)[7]。本社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、本社祓殿(はらいでん)、摂社客神社本殿・幣殿・拝殿(以上1棟)、摂社客神社祓殿、東廻廊、西廻廊の計6棟が1952年に国宝に指定されており、高舞台、平舞台、左右門客神社、左右楽房は国宝の「附」(つけたり)指定扱いとなっている。記録によると、かつての厳島神社には夏堂(本地堂)、粥座屋、朝座侍屋があったことが分かっている。また、付加された建築としては天神社、能舞台などがある。

社殿は波の穏やかな瀬戸内海の島の北岸に位置するとはいえ、海域に建っているため、台風などによって被害を受けることもしばしばである。20世紀以降では、1945年9月17日の山津波で各建物の床下に土砂が流れ込む被害を受けた。1950年9月13日のキジア台風と1951年10月14日のルース台風でも高潮の被害を受けている。1991年9月27日の台風19号による被害は甚大で、左楽房の部材が流出し、それをロープで繋ぎ止めている間に能舞台が倒壊した。2004年9月の台風でも左楽房が倒壊するなどの被害があった。こうした高潮等の被害のため、外海寄りに位置する左右楽房、平舞台などはたびたび修理を受けており、古い部材は残っていない。一方で、本殿・幣殿・拝殿などの主要建物は、1991年の台風で檜皮葺屋根がめくれるなどの被害はあったが、建物の根幹部はさほど甚大な被害を受けていない[8][9]

以上のように、厳島神社の社殿は台風に伴う土石流、高潮などの被害をたびたび受けている。しかしながら、毎回被害を受けるのは能舞台、門客神社、楽房などの一部の建物に限られている。これらの建物は平清盛の時代には存在せず、後に追加されたものであり、いずれも簡易な構造の附属社殿である。本殿、拝殿などの主要建物は、1991年の大型台風の際にも被害は僅少であった。建築史家の三浦正幸は、厳島神社の本殿内陣は清盛の時代以来850年間、一度も水没したことがないとしたうえで、当神社の主要社殿は200年に一度の高潮にも水没しない位置を選んで建てられているとし、台風の被害を受けるのは清盛時代には存在しなかった社殿(門客神社、楽房など)のみだとしている。また、当神社の社殿が海域に建っているにもかかわらず、柱の不同沈下を起こさないのは、社殿の建つ位置がもともと陸地であったところを掘削して海としたためであり、社殿は大きな岩盤の上に建っているのではないかとする。[10]

厳島神社の社殿が現在に近い形に整備されたのは、平安時代末期であり、安芸国守に任じられた平清盛の援助を受け、当時の神主佐伯景弘によって社殿が造営された。当時の社殿は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭い、現存する社殿の主要部は貞応の火災後、仁治2年(1241年)に再建されたものである。本社の幣殿・拝殿・祓殿、客神社の本殿・幣殿・拝殿・祓殿はこの時の建物であるが、本社本殿は室町時代に建て替えられており、棟札から元亀2年(1571年)の再建と判明する。この時の再建は火災に伴うものではなく、永禄12年(1569年)、毛利元就と対立した備後の豪族和智兄弟が本殿に立て籠もり殺害されるという事件があり、社殿が血でけがれたとして建て替えられたものである。これらの社殿は中世の再建ではあるが、その規模や様式は平安時代末期のものを引き継いでいるとみなされている[11]。摂社客神社の社殿は永享2年から5年(1430 - 1433年)に大規模な修理を受けている[12]

本社

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本社本殿・拝殿(西面)
本社拝殿(正面東側)
本社拝殿内部
右楽房(左)、右門客神社(右)

本社、客神社、廻廊など、海域部分に建つ建物の屋根はいずれも檜皮葺である。本社の社殿は、奥から手前に本殿・幣殿・拝殿・祓殿の順に並ぶ。これらの社殿の平面や配置をみると、完全な左右対称形ではなく、幣殿と祓殿は本殿から見てやや西寄り(正面から見て右寄り)の位置に建っている。また、本殿と拝殿は柱の配置が左右対称になっていない。一般に神社建築では各柱間を等間隔にするか、正面中央の柱間を広く取るのが普通だが、厳島神社本社の本殿・拝殿では、もっとも広い柱間は西寄りの位置にあり、社殿全体の中軸線が西側に寄っている(その理由は後述)[13]

本社本殿の屋根は、切妻造の正面・背面の両方を長く伸ばし、その伸ばした部分を庇とした形で、このような屋根形式を「両流造」という。本殿の柱間は桁行(間口)が正面8間・背面9間、梁間(奥行)が4間である。構造的には桁行9間、梁間2間の身舎の前後2方向に庇を付けた形になる。桁行背面の柱間が9間であるのに対し、桁行正面の柱間が1間少ない8間となっているのは、正面側では柱を1本省いているためである。すなわち、背面では柱が規則的に10本立つ(柱間は9間)のに対し、正面では向かって右から5本目にあたる柱を省いて、その部分の柱間を他より広く取っており、ここが社殿の中軸部になる。本殿の内陣には6基の宝殿を安置する。6基のうち3基には宗像三女神を祀り、残りの3基には相殿神と呼ばれる神々を併祀する。このうち、主神の市杵島姫命の宝殿を安置する部分のみ柱間が他よりも広くなっており、これが前述の中軸部にあたる。以上のような理由で、本社では社殿の中軸が西方(向かって右)にずれている。本殿の組物は平三斗(ひらみつと)で、中備(なかぞなえ)は中軸部の柱間が蟇股(かえるまた)、その左右の柱間は間斗束(けんとづか)とする。蟇股は明治14年(1881年)の修理時の新造だが、摂社客神社本殿の蟇股と似ていることから、修理前の古い形態をとどめているものと思われる。本殿正面の柱間装置は、中央6間を引違いの菱格子戸、両端の間を連子窓とする。

幣殿は本殿・拝殿間をつなぐ廊に屋根を付けた形になり、方1間、両下造(りょうさげづくり)とする。両下造とは、切妻造と同じ屋根形態だが、両端が別の建物に接するため妻面がないものを指す。

拝殿は入母屋造、桁行10間、梁間3間で、組物は舟肘木を用いる。神社の本殿・拝殿の正面柱間は3間、5間などの奇数となるのが普通で、偶数の10間とするのは異例である。拝殿も本殿と同様に左右非対称で、右から5間目の柱間のみが特に広く、この部分に幣殿が取り付く。拝殿内部は、柱の省略がなく、1間ごとに規則的に柱が立つ。梁間3間のうち、中央の1間と奥(南側)の1間とはそれぞれ化粧屋根裏とする。化粧屋根裏とは、天井を張らず、桁、垂木等の構造材をそのまま見せるもので、建物内部から見上げると、切妻造の建物2つが前後に接して建っているように見える。この2つの棟を覆って建物全体の棟があることから、全体を「三棟造」といい、この拝殿のことを別名「三棟」ともいった。

祓殿は拝殿の手前に棟を直交させて建つ入母屋造、妻入の建物で、桁行6間、梁間3間である。全面吹き放し(柱間に壁や建具を入れない)の開放的な建物である。

本殿裏手の陸地部は後園(うしろその)と呼ぶ禁足地となっている。禁足地には玉垣をめぐらし、中央に不明門と呼ぶ本瓦葺の四脚門が建つ。不明門は祭神が弥山から社殿へ降りる際に通る門とされ、人が通行することはない[14][15]

平舞台は、浅い海底に立てた石柱の上に大引と根太を渡した軸組の上に床板を張ったものである。石柱は赤間石製で、毛利元就の寄進とされる[16]。床板は、高潮時の水圧を逃がせるように、隙間をあけて張られているが、それでも台風などでたびたび破損している。平舞台の中央付近を一段高くして高欄をめぐらし、この部分を高舞台と称する。平舞台の前方は外側に左右の楽房、内側に左右の門客神社がある。楽房は切妻造の簡素な建物、門客神社は切妻造の覆屋内に流造の社殿がある。これらの舞台や建物は台風などの被害をもっとも受けやすい位置にあって、たびたび破損と修理を繰り返しており、古い部材は残っていない[17]

客神社

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大鳥居を望む、右は客神社祓殿、左奥は右楽房

摂社客神社は、本社と同様に本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなるが、規模は本社より小さい。その他、細部において本社とは異なる点がある。

客神社本殿は、両流造、桁行5間、梁間4間。拝殿は入母屋造、桁行9間、梁間3間で、これらの間を方1間、両下造の幣殿で連結する。祓殿は入母屋造、妻入で、桁行4間、梁間3間である。本社では廻廊は祓殿の側面に取り付くが、客神社では廻廊は祓殿と拝殿の間を通っている。また、客神社では本社の平舞台にあたる板敷の施設がなく、祓殿は直接海に面している。客神社の本殿と拝殿は、本社の本殿・拝殿と異なって桁行柱間が奇数であり、中央の柱間を広く取り、左右対称形の通常の平面形式である。本殿の正面柱間の中備は、本社本殿と異なり、5間とも蟇股とする。拝殿は、本社拝殿と異なって、内部の身舎部分の柱を一部省略して内部空間を広く取っており、本社拝殿のように前後に2つの化粧屋根裏を作る形ではなく、梁間2間分を1つの化粧屋根裏としている[18]

廻廊

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東西廻廊は一般の神社の廻廊のように敷地を四角く区切るものではなく、海上の各建物と陸地とを結ぶ渡り廊下の役を果たしている。西廻廊は折れ曲がり62間で、西端は地上部に発し、海上に建つ能舞台を囲むように4回直角に折れた後、本社祓殿西面に接続する。東廻廊は折れ曲がり45間で、東北端は地上部に発し、客神社の祓殿と拝殿の間を通り、3回直角に折れた後、本社祓殿東面に接続する。両廻廊とも組物は舟肘木とし、平舞台と同様、床板は高潮時の水圧を逃がすため、隙間を空けて張っている。内部架構は梁間方向に直材の虹梁を渡し、その上に又首(さす)を組み、又首上の舟肘木で桁を支える。廻廊には棟札が多数残り、室町時代末期から桃山時代にかけて順次整備されたものであることがわかる[19]。廻廊の現在の床板は明治末期頃に張り替えたもので、磨滅防止のため、本来の床板の上に保護板が張られている[20]

摂社、末社、附属建物

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豊国神社本殿
豊国神社本殿(内部)
摂社大国神社本殿と長橋(右は本社本殿)

以上の国宝建築物のほか、摂社、末社、附属建物など14棟(厳密には8棟と橋3基、塔2基、鳥居1基)が重要文化財に指定されている。本社周辺の海上に建つ建物としては、摂社大国神社本殿摂社天神社本殿朝座屋(あさざや)、能舞台揚水橋(あげみずばし)、長橋反橋があり、湾の入口付近には大鳥居がある。厳島神社の主要な建物は海域に建つが、地上部分にもいくつかの建物がある。本社背後の社務所近くには校倉造り宝蔵が建つ。湾の東岸の塔岡(とうのおか)には末社豊国神社本殿五重塔があり、丘の麓には末社荒胡子神社本殿がある。豊国神社本殿は「千畳閣」の通称がある本瓦葺きの大建築で、もとは「大経堂」と称された。湾の西岸には宝物館の裏手の高台に多宝塔があり、やや離れた大元浦には摂社大元神社本殿がある。五重塔、多宝塔、豊国神社本殿などの仏教建築が今も残り、神仏習合の名残をとどめているのが厳島神社の特色である。[18]

  • 摂社大国神社本殿 - 本社本殿の西に位置する。切妻造、檜皮葺。桁行3間、梁間4間。桁行3間のうち東の1間は幅が広く、南側に位置する長橋に通じる通路としている。室町時代の建立で、本社本殿と同じく元亀2年(1571年)、毛利元就の造営と考えられている。[21]
  • 摂社天神社本殿 - 大国神社本殿の西南に位置する。入母屋造、檜皮葺。桁行3間、梁間3間。弘治2年(1556年)の建立。他の社殿群が朱塗であるのに対し、本建物は素木造である。
  • 朝座屋 - 本社本殿の東方、東廻廊に接して建つ。片側入母屋造、片側切妻造、檜皮葺。桁行8間、梁間4間。桃山時代の再建。
  • 能舞台 - 本社拝殿の西方の海中に建ち、北側を除く三方を西廻廊に囲まれている。切妻造、檜皮葺。桁行・梁間とも1間。橋掛と能楽屋を伴う。延宝8年(1680年)、広島藩主浅野綱長の寄進により建立。1991年の台風で倒壊し、柱4本のうち3本は取り換え材である[22]
  • 長橋 - 本社本殿の南西方、大国神社本殿と南の陸地部を結ぶ橋。桃山時代の建立。橋脚は石造だが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている[23]
  • 反橋 - 長橋の西方、西廻廊と南の陸地部を結ぶ弧形の橋。擬宝珠に弘治3年(1557年)の銘がある。擬宝珠は古いが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている[24]
  • 揚水橋 - 本社本殿の東方、東廻廊と南の陸地部を結ぶ短い橋。桃山時代の建立。
  • 末社豊国神社本殿 - 明治以降は豊国神社となっているが、もとは大経堂で、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に戦没者の供養のために発願した建物である。秀吉が毛利輝元に命じて建立させ、実際の建築の指図は安国寺恵瓊によって行われた。この建物の鬼瓦には天正17年(1589年)の銘を有するものがあり、この頃までには建物の形ができていたと思われるが、その頃、秀吉が朝鮮への出兵を決意したことにより建築工事は中断し、細部の造作は未完成のまま今日に至っている。入母屋造、本瓦葺。柱間は桁行13間(背面は15間)、梁間8間、実長は桁行39.5メートル、梁間21.1メートルの規模を有し、外周には軒の出を支えるため軒支柱をめぐらせている。この建物は規模の大きさから「千畳敷」と通称され畳857枚分に相当する広さがあるが、床は畳敷ではなく板張である。内部は2間ごとに独立柱が立ち、中央奥に須弥壇を設ける。
  • 宝蔵 - 校倉造。屋根は寄棟造、檜皮葺。室町時代の建立。
  • 五重塔 - 応永14年(1407年)の建立。檜皮葺。日本の他の仏塔と同様、建築様式は和様を基調とするが、四隅の軒の強い反り、柱の粽(ちまき)、尾垂木の先端を三角形状に削る点など、細部に禅宗様の要素がみられる。
  • 末社荒胡子神社本殿 - 一間社流造、檜皮葺の小社殿。嘉吉元年(1441年)の建立。
  • 多宝塔 - 檜皮葺。大永3年(1523年)の建立。
  • 摂社大元神社本殿 - 三間社流造、流板葺。大永3年(1523年)の建立。前方の庇部分を、正面は菱格子戸、側面は板壁で囲い、前室として取り込む形式が珍しい。

大鳥居

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大鳥居

境内の沖合約200mの地に立つ(北緯34度17分50.29秒 東経132度19分5.24秒 / 北緯34.2973028度 東経132.3181222度 / 34.2973028; 132.3181222 (大鳥居))。

現鳥居は明治8年(1875年)の再建である。棟の高さ16.6メートル、柱間10.9メートルの、大型の木造両部鳥居(各主柱に2本ずつの控柱がつく)である。主柱はクスノキの自然木で、控柱はスギ材である。主柱は1本が宮崎県岡富村(現西都市)、もう1本が香川県和田浜(現観音寺市)で切り出された。両柱とも、1950年の修理時に根継ぎを行っており、根継ぎ材は東柱が福岡県久留米市、西柱が佐賀県佐賀郡川上村大字池ノ上字池ノ上(現在佐賀市大和町池ノ上)で切り出されたものである。各主柱の立つ基礎は、千本杭といって、松材の丸太の杭を密に立てて打ち込んだもので、現在はその上をコンクリートと花崗岩で固めてある。鳥居はこの土台の上に約60tの自重で立っている。島木と笠木は箱状の構造で、これらの内部には拳大の石が約7t詰め込まれており、その重みによって大鳥居は自立し、風や波に耐えるようになっている[25]

奈良の春日大社・敦賀の気比神宮の大鳥居とともに「日本三大鳥居」に数えられる。現在のものは平清盛の造営時から8代目と言われる。扁額は有栖川宮熾仁親王の染筆で、沖側は「嚴嶋神社」、神社側は「伊都岐島神社」と記されている。

亀裂の部分にたくさんの硬貨が差し込まれている。

近年、大鳥居にできた亀裂の部分に、一部の観光客によって硬貨が差し込まれるケースが多発している[26]。神社側は「鳥居の柱の老朽化が進む虞があり、止めてほしい」と呼び掛けている[27]

一遍上人絵伝に描かれる厳島神社

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『一遍上人絵伝』に描かれる厳島神社の風景は弘安10年(1287年)の臨時祭の時のもので、現存社殿が整備された仁治2年(1241年)より後の情景ということになるが、絵巻に描かれている社殿の様子は現存する社殿とは大きく異なっている。絵巻では拝殿の前に祓殿がなく、拝殿左右から発した廻廊が拝殿前方を方形に区画し、区画された中に高舞台が浮かぶ。この絵巻に描かれた建物構成が、まったくの「絵空事」であるのか、仁治の再建以前にはこのような方形区画の廻廊を設けていた時期があったのかは定かでない[28][29]

一遍聖絵』に描かれた厳島神社境内

摂末社

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外宮

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厳島は古くは神の住む島として禁足地であったことから、対岸の地に創建され遥拝所となされた[30]。のちに平氏が隆盛するとともに外宮として発展した[30]

現在は例祭である旧暦6月17日管絃祭において管絃船(御座船)が本社から地御前神社へ渡御する。

奥宮

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御山神社(奥宮)
神体とする弥山(中央右の峰)

摂社

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境内摂社[* 6]
  • 客神社 (まろうどじんじゃ)
    本社同様、本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなる。厳島神社の主要祭典はこの客神社から始まる。
  • 左門客神社(ひだりかどまろうどじんじゃ)
    • 祭神:豊磐窓神
  • 右門客神社
    • 祭神:櫛磐窓神
  • 大国神社
  • 天神社
    他の社殿と異なり素木造である。
境外摂社
大元神社(奥の本殿は重要文化財)

末社

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いずれも境外末社。

宮島七浦の末社
七浦とは島の周囲にある浦の総称で、各浦に以下の神社が東回りに鎮座している。古くは島廻りが盛んに行われていた[32]

祭事

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年間祭事

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管絃祭

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管絃祭(かんげんさい)は、旧暦6月17日に行われる例祭。大阪の天神祭大阪天満宮)、島根のホーランエンヤ(城山稲荷神社)とともに「日本三大船神事」に数えられる。

平清盛が始めたとされる都で行われていた管絃遊びを元にした神事で、管絃船(御座船)が対岸の地御前神社へ渡御したのち還御する。厳島が禁足地とされていた時代は、対岸の地御前神社から厳島神社に行き管絃を合奏する神事であった(詳しくは「管絃祭」を参照)。

文化財

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国宝

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建造物
  • 厳島神社(1件6棟)
    • 本社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣(不明門を含む)、左右内侍橋)
    • 本社祓殿
    • 摂社客(まろうど)神社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣)
    • 摂社客神社祓殿
    • 廻廊東廻廊
    • 廻廊西廻廊
      • (本社の附)高舞台、平舞台、左右楽房、左右門客神社本殿、棟札4枚
      • (廻廊の附)棟札19枚
美術工芸品
平家納経 序品 見返し絵
彩絵檜扇
兵庫鎖太刀(5口のうち)
  • 平家納経
    • 法華経(開結共)30巻、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、長寛二年平清盛願文1巻
    • 金銀荘雲龍文銅製経箱 1具
    • 蔦蒔絵唐櫃 1合
  • 金銅密教法具 1具(金剛盤1口、五鈷鈴1口、独鈷杵1口、三鈷杵1口、五鈷杵1口)
  • 厳島神社古神宝類 一括
    • 宝相華文螺鈿平塵飾太刀 1口
    • 双鳳文螺鈿平塵飾太刀鞘 1口
    • 半臂 1枚(附 紅地幸菱文綾残片)
    • 内衣 1枚
    • 石帯 1条
    • 平緒 1条
    • 木笏 1握
    • 檜扇 3握
    • 飾太刀 1口
    • 平胡籙 1口
    • 箭11隻
    • 朱塗飾太刀箱 1合
    • 朱塗飾太刀箱 1合
    • 松食鶴小唐櫃 1合
    • 松食鶴小唐櫃 1合
  • 紺絲威鎧(こんいとおどしよろい) 兜、大袖付
  • 小桜韋黄返威鎧(こざくらがわきがえしおどしよろい) 兜、大袖付
  • 浅黄綾威鎧 兜、大袖付
  • 黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる) 兜、大袖付
  • 太刀 銘友成
  • 梨子地桐文螺鈿腰刀 中身に友成作と銘がある(附 蒔絵箱)
  • 彩絵桧扇
  • 紺紙金字法華経7巻・観普賢経1巻(平清盛・頼盛合筆)(附 金銅経箱)

重要文化財

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建造物
  • 朝座屋
  • 能舞台(附 橋掛及び能楽屋)
  • 揚水橋
  • 長橋
  • 反橋
  • 大鳥居(附 棟札2枚)
  • 摂社大国神社本殿
  • 摂社天神社本殿(附 宮殿1基、渡廊1棟、棟札1枚)
  • 摂社大元神社本殿(附 宮殿3基、銘札2枚)
  • 宝蔵(附 棟札1枚)
  • 五重塔
  • 多宝塔(附 棟札1枚)
  • 末社荒胡子神社本殿(附 棟札1枚)
  • 末社豊国神社本殿(千畳閣)(附 棟札2枚)
美術工芸品
  • 絹本著色山姥図 長沢芦雪筆(絵馬)
  • 釈迦及諸尊箱仏
  • 舞楽面 2面(貴徳、散手)
  • 舞楽面 7面(二ノ舞(2面)、採桑老、納曾利(なそり)、抜頭(ばとう)、還城楽(げんじょうらく)、陵王)
  • 木造狛犬 14躯
  • 木造飾馬
  • 梅唐草蒔絵文台硯箱 1組
  • 紺紙金泥法華経入蓮花蒔絵経函
  • 紙本墨書扇(伝高倉天皇御物)
  • 七絃琴(伝平重衡所用)
  • 鋳銅釣燈籠 正平廿一年(1366年)銘
  • 木製彩色楽器 奚婁(けいろう)、鼗(ふりつづみ)(「ふりつづみ」の漢字は上半分が「兆」、下半分が「鼓」)
  • 木製銅字扁額 後奈良天皇宸翰 2面
  • 太刀 中身久国ト銘アリ(附 糸巻太刀拵)
  • 短刀 銘長谷部国信(附 銀鮫柄蝋色刻鞘合口拵)
  • 太刀 銘光忠(附 革柄蝋色鞘脇指拵)
  • 太刀 銘備州長船住(一字不明)真(附 革包太刀拵)[* 7]
  • 太刀 表ニ備州長船住(一字不明)長作 裏ニ嘉元二二年十月日ノ銘アリ(社伝則長作)
  • 太刀 銘一(附 糸巻太刀拵)
  • 太刀 銘一(附 黒漆太刀拵)
  • 刀 無銘伝雲次(附 革柄蝋色鞘打刀拵)
  • 太刀 銘備中国住(以下不明) 延文三年六月日
  • 太刀 銘包次(附 黒漆半太刀拵)
  • 太刀 銘清綱(附 野太刀拵)
  • 太刀 銘文永二年三月清綱(附 革包太刀拵)
  • 大太刀 銘備後国住人行吉作
  • 刀 銘談議所西蓮(附 打刀拵)
  • 錦包籐巻太刀、錦包籐巻腰刀 刀身欠
  • 革包太刀 中身貞和二年云々トアリ[* 8]
  • 鍍金長覆輪太刀
  • 鍍金兵庫鎖太刀 5口
  • 木地塗螺鈿飾太刀
  • 漆絵大小拵(こしらえ)(陣刀)(小柄前欠)[* 9]
  • 藍韋(あいかわ)肩赤威甲冑 大内義隆奉納
  • 赤糸威胴丸具足 筋兜・小具足付
  • 銀小札(ぎんこざね)白糸威胴丸具足 兜・大袖・小具足付(附 鎧櫃)
  • 能装束 紅地鳳凰桜雪持笹文唐織
  • 能装束 紅浅葱地菊笹大内菱文様段替唐織
  • 舞楽装束(納曾利)天正十七年(1589年)朱書銘
  • 狂言装束(唐人用) 繍箔鳳凰鴛鴦菊文、繍箔鳳凰柳桜文、繍箔楓菊桐杜若文、繍箔柳樹鷺文
  • 紺紙金字華厳経(附 黒漆塗経箱)56巻
  • 紺紙金字大方等大集経(附 黒漆塗経箱)50巻
  • 紺紙金泥金剛寿命陀羅尼経 平親宗筆
  • 紙本墨書御判物帖 2帖

国の登録有形文化財

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  • 宝物館

国の特別史跡・特別名勝

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  • 厳島

広島県指定重要文化財

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  • 銅鐘
  • 鉄地黒漆塗三十八間総覆輪筋兜
  • 琵琶(附 捍撥革1枚)

名所・旧跡

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その他

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世界遺産の登録

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世界遺産 厳島神社
日本
英名 Itsukushima Shinto Shrine
仏名 Sanctuaire shinto d'Itsukushima
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (2), (4), (6)
登録年 1996年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
厳島神社の位置
使用方法表示

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

現地情報

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所在地

拝観時間

  • 午前6時30分-午後5時
    通常は午後5時に閉門となる。ただし、大鳥居については午後5時以降もライトアップされており、干潮であれば近づくことも可能である。

付属施設

  • 宝物館 - 厳島神社の所有する国宝・重要文化財指定を含む宝物を展示。

交通アクセス

フェリーと社殿
フェリーは大鳥居近くを航行する。
厳島#交通アクセス」も参照。

アクセス補足事項

  • 島内の駐車場:無し。自動車利用の場合は宮島口桟橋付近の駐車場に駐車し、フェリーで島に渡る。なお、厳島内の宿に宿泊する場合は宿の駐車場が利用できる場合もあるが、島内の道路はきわめて狭い
  • 別ルートとして、広島港広島平和記念公園からの観光遊覧船ルートもある(便数は少なく平日は終了も早い)

弥山山頂まで

弥山山頂の巨石群
  • 宮島ロープウェー利用
    • ロープウェー:山麓の紅葉谷駅から獅子岩駅まで (閑散期で約15分) - 紅葉谷公園入口から紅葉谷駅まで無料のシャトルバスが運行
    • 獅子岩駅から山頂までは、徒歩で約30分
  • 徒歩(登山) - 「弥山 (広島県)#登山経路」を参照
    • 紅葉谷コース・夕日観音コース・大聖院コース・大元公園コースがあり、所要時間は概ね90分から120分
  • 奥宮の御山神社へは、弥山本堂から分かれて徒歩約5分
  • 弥山は標高が535mあり、山麓とは天気・気温が変わる場合があるので注意が必要

周辺

関連作品

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描かれた厳島神社

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美術作品だけでも、厳島神社や安芸宮島/安芸宮島あきのみやじま)を描いた二次元表現物は数多く、ここに挙げるものはほんの一部に過ぎない。戦国乱世のささくれだった風潮が払拭されない江戸時代前期が過ぎ、太平の世が深まって大衆文化が隆盛する中期になると参拝・参詣物見遊山(観光)の機運が芽生え、後期に差し掛かる前にいよいよ機運は“沸騰”する。そのようななかで山陽道の安芸宮島が「行ってみたい憧れの参詣地」として屈指の画題になったのは当然のことであった。宮島でもとりわけ厳島神社、厳島神社でもとりわけ大鳥居は、この地域を象徴する画題として分かりやすく、そして人気が高かった。葛飾北斎名所浮世絵揃物富嶽三十六景』における富士山さながらに、明治時代には厳島神社の大鳥居を連作の画題として描くものまで現れた。

一方で、江戸時代前期以前に描かれたものは他の神社仏閣並みに特段多くはなかったと思われ、確定的なことだけを言うなら、描かれていたとしても現在まで伝えられたものは極めて少ない。

『一遍聖絵』は、正安1元年(1299年)、一遍の弟子にあたる聖戒が詞書を起草。絵は画僧・法眼円伊による。清浄光寺本(旧歓喜光寺本)の巻第十には、弘安10年(1287年)に執り行われた臨時祭の時の厳島神社を描いた1図が含まれている[34]。『一遍聖絵』は国宝で、指定日は1952年(昭和27年)3月29日。指定名称は「絹本著色一遍上人絵伝」。所有者は神奈川県・清浄光寺[35]
■画像もある「#一遍上人絵伝に描かれる厳島神社」節にて詳説する。
  • 2. 長沢芦雪 『絹本淡彩宮島八景図』(けんぽん たんさい みやじまはっけいず
水墨画。この画像は1帖8図中の1図。寛政6年(1794年記。国指定重要文化財で、指定日は1965年(昭和40年)5月29日。所有者は国(文化庁)、保管施設は東京国立博物館文化庁分室。
  • 3. 歌川国貞 『紅毛油絵風 安芸の宮島』(こうもうあぶらえふう あきのみやじま
文政8年(1825年)刊行。横大判錦絵。紅毛油絵(欧米油彩画)に倣って描かれた名所浮世絵揃物『紅毛油絵風』中の1図。
  • 4. 歌川広重 『六十余州名所図会 安芸 巌島祭礼之図』(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ あき いつくしま さいれいのず
嘉永6年(1854年)刊行。縦大判錦絵板元は越平(越村屋平助)。名所浮世絵揃物『六十余州名所図会』の第50景。旧暦6月17日の夜に行われる船神事「管絃祭かんげんさい)」[36][37][38]の一幕で、足元を大潮に洗わせる大鳥居を、見切れた画角で近景として描いている。中景の管絃船は大鳥居前の儀を斎行している。管絃船とは管絃を奏しながら航行する船のことで、本図が描かれた幕末初頭におけるこの祭礼では船3艘を横に繋げた御座船であった[36][37][38]鳳輦に乗って厳島神社本殿を出御した祭神は、大鳥居前で待っていた管絃船に既に乗り換えている[36]。大鳥居前の儀を終えると、管絃船は各所を巡幸し、大鳥居をくぐって客神社祓殿前から枡形を廻った後、本殿へ還御するのであるが[36][37]、この時代の管絃船は航行の安全を期して阿賀江波2村の船団に曳航させている[36]。本図には取り巻きの船が6艘描かれており、儀式が終わり次第これらの船の代表が曳航を始めることになっている[36]。なお、大鳥居の儀が斎行される時刻は、今も昔も暮れ六つ(すなわち薄明〈日が落ちた直後の仄暗い頃、トワイライトタイム〉の直後)と決まっており[36][37]、すなわちそれは夜の帳(とばり)が陽の光の名残まで消し去った時であるが、広重はこの点も正確に描いている。
  • 5. 歌川広重 団扇絵『日本三景 安芸 厳島』(にほんさんけい あき いつくしま
嘉永5年-安政4年(1852-1858年)中に刊行。
  • 6. 2代目 歌川広重 『諸国名所百景 安芸宮島汐干』(しょこくめいしょひゃっけい あきのみやじま しおひ
安政6年(1860年)刊行。縦大判錦絵。板元は魚栄(魚屋栄吉)。名所浮世絵揃物『諸国名所百景』の1図。の咲く季節の明け方引き潮時の大鳥居を近景に宮島を描く。鳥居に近づく人々もいれば、鹿もいる。題名にもあるとおり、潮干狩をする人々も見える。
  • 7. 月岡芳年 『大日本名将鑑 毛利元就』(だいにっぽんめいしょうかがみ もうりもとなり
1879年明治12年)2月刊行。縦大判錦絵。絵師の名義は大蘇芳年。武者絵揃物『大日本名勝鑑』の1図。厳島の戦いの一場面を描く。
  • 8. 月岡芳年 『月百姿 いつくしまの月 室遊女』(つきのひゃくし いつくしまのつき むろのあそびめ
1886年(明治19年)刊行。縦大判錦絵。板元は滑稽堂(秋山武右衛門)。月に材を取った浮世絵揃物『月百姿』の第21図で、『平家物語』巻5の「室泊遊君歌事」に基づいて描かれたもの。
  • 9. 小林清親 『日本名勝図会 厳島』(にほんめいしょうずえ いつくしま
1896年(明治29年)刊行。縦大判錦絵。板元は大黒屋平吉5代目松木平吉)。全国各地の名勝を題材とした名所浮世絵揃物『日本名勝図会』の第3景。手前は大鳥居のわずかに俯瞰の図、奥は本社等の社殿の俯瞰図という、2画面構成になっている。満潮時の大鳥居の周りには客を乗せた3艘の高瀬舟が見える。
  • 10. 川瀬巴水 『旅みやげ 第二集』「晴天の雪(宮嶋)」(たびみやげ だいにしゅう せいてんのゆき みやじま
1921年大正10年)刊行。縦大判多色摺版画。名所絵新版画『旅みやげ 第二集』の1図。版元は渡邊版画店(渡邊木版美術画舗)。
1993年平成5年)発表[39]。第78回院展出展作品[39]日本画。夜の青い帳(とばり)に包まれた満潮時、柔らかな月明かりを受ける厳島神社の社殿は仄かに形を浮かび上がらせている。釣灯籠(つりどうろう)の灯りは回廊を点々と連なって、奥へ奥へと続いている。夜の帳の青色は「平山ブルー」と呼ばれる深い群青色で描かれている[40]

音楽

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厳島神社をテーマとした音楽としては、楽曲夕陽の笛』がある。1969年(昭和44年)にNHKみんなのうた』の企画として始まった「お国めぐりシリーズ」の第5弾として、同年12月に初めて放映された。

関連項目

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脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 日本三舞台の他の2つは、大阪の四天王寺の石舞台と大阪の住吉大社の石舞台。
  2. ^ 日本三大鳥居の他の2つは、奈良の春日大社と敦賀の気比神宮の大鳥居。
  3. ^ 日本三大弁才天の他の2つは、神奈川県江の島江島神社滋賀県竹生島都久夫須麻神社
  4. ^ 『広島県の地名』宮島町項。ただし「厳島」の語源には、祭神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)とするなどの他説がある(「厳島#語源」参照)。
  5. ^ ただし、造営の主体者は佐伯景弘であったとされる(『広島県の地名』佐伯郡宮島町 厳島神社項)。
  6. ^ 便宜上、拝観の順路途中にあるものを境内社とし、それ以外を境外社とした。
  7. ^ 『厳島神社の刀剣』(泉屋博古館、2008)は、本件太刀の銘を「備州長船住国真」とする。
  8. ^ 『厳島神社の刀剣』(泉屋博古館、2008)によれば、中身の太刀の銘は「備中国青井助次助家作貞和二年(以下不明)」。
  9. ^ 『厳島神社の刀剣』(泉屋博古館、2008)によれば、拵の中身は、大(刀)が無銘 伝・兼光、小(脇指)が無銘 伝・青江吉次。

出典

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  1. ^ 国宝・世界遺産 嚴島神社(公式サイト)。
  2. ^ 世界遺産 「厳島神社」”. 文化遺産オンライン/文化庁. 2019年12月21日閲覧。
  3. ^ 御由緒 拝観(公式サイト)。
  4. ^ a b 『広島県の地名』佐伯郡宮島町 厳島神社項。
  5. ^ 東京大学史料編纂所『大日本古記録 臥雲日件録抜尤』岩波書店、1961年、161頁。 
  6. ^ 鈴木充 (1992) p.82
  7. ^ 岩崎 (2012) pp.
  8. ^ 1991年以前の被害については(鈴木充 1992, pp.119-1211)による。
  9. ^ 丸山ほか (2005)
  10. ^ 三浦 (2011) pp.18-25
  11. ^ 鈴木充 (1992) pp.84-86
  12. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝 28』、p.2-231
  13. ^ 鈴木充 (1992) pp.88-96
  14. ^ 鈴木充 (1992) pp.88-96, 105
  15. ^ 工藤 (1988) p.48
  16. ^ 宮島🦌厳島神社「平舞台」【国宝】 | 厳島神社-御朱印”. 2023年3月31日閲覧。
  17. ^ 鈴木充 (1992) pp.102-105
  18. ^ a b 鈴木充 (1992) pp.105-109
  19. ^ 鈴木充 (1992) p.110
  20. ^ 三浦 (2011) pp.52-54
  21. ^ 付属建物、摂社、末社の建物については(鈴木充 1992, pp.112-119)による。
  22. ^ 三浦 (2011) pp.83-84
  23. ^ 三浦 (2011) p.80
  24. ^ 三浦 (2011) p.82
  25. ^ 鈴木充 (1992) pp.110-112
  26. ^ 倒壊の危機、厳島神社大鳥居の大改修開始”. 訪日ラボ (2019年6月27日). 2020年9月24日閲覧。
  27. ^ 大鳥居、亀裂に小銭差し込み 厳島神社「やめて」 朝日新聞 2013年12月9日[リンク切れ]
  28. ^ 鈴木充 (1992) pp.94-95
  29. ^ 工藤 (1988) p.44
  30. ^ a b 『広島県の地名』佐伯郡廿日市町 地御前神社項。
  31. ^ 摂末社に関しては宮島の神社・一覧(個人サイト)、『広島県の地名』各項を参考に記載。
  32. ^ 『広島県の地名』佐伯郡宮島町 七浦項。
  33. ^ 『世界遺産 日本三景 宮島』より。
  34. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション・一遍聖絵
  35. ^ 指定文化財目録”. 藤沢市. 2019年6月22日閲覧。
  36. ^ a b c d e f g 管絃祭”. 公式ウェブサイト. 宮島観光協会. 2019年6月21日閲覧。
  37. ^ a b c d 厳島神社『管絃祭』|2019 - 34広島県”. ニッポン旅マガジン(公式ウェブサイト). 一般社団法人プレスマンユニオン (2019年). 2019年6月21日閲覧。
  38. ^ a b 佐々木康之 (2018年7月29日). “厳島神社の「管絃祭」106年ぶり中止 日本三大船神事”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). https://www.asahi.com/articles/ASL7X54P2L7XPITB01N.html 2019年6月21日閲覧。 
  39. ^ a b c 「平山郁夫 歴史遺産を描く」展 8/27~12/3”. 公式ウェブサイト. 平山郁夫美術館 (2017年8月5日). 2019年6月26日閲覧。■画像あり。
  40. ^ a b 共同印刷株式会社 アート&カルチャー事業部 (2018年12月6日). “新作≪月華厳島≫のご案内”. 美術趣味(公式ウェブサイト). 共同印刷株式会社. 2019年6月26日閲覧。※こちらは複製画で、解説も基本的には複製画についてのもの。典拠とするのは原画でも変わらない部分の解説。
  41. ^ 佐藤春佳 (2016年10月24日). “【佐藤春佳のシリーズブレーク】「宮島さんの神主」に100年以上の歴史あり”. サンケイスポーツ. 2021年4月14日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 野坂元良編『厳島信仰事典』、戎光祥出版2002年 ISBN 4-900901-24-5
  • 山口佳巳「仁治度厳島神社の社殿」広島大学総合博物館研究報告、2009年
  • 日本歴史地名大系 広島県の地名』佐伯郡廿日市町 地御前神社項、宮島町内の各項
  • 『世界遺産 日本三景 宮島』(宮島観光協会)
  • 神社由緒書
  • 鈴木嘉吉・工藤圭章責任編集『不滅の建築4厳島神社』、毎日新聞社、1988
  • 工藤圭章「波に姿を映す女神の社」『不滅の建築4厳島神社』(毎日新聞社、1988)所収
  • 岡本茂男・鈴木充・清水好子『日本名建築写真選集8厳島神社』、新潮社、1992
  • 鈴木充「海上の社殿 - 厳島神社」『日本名建築写真選集8厳島神社』(新潮社、1992)所収
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝 28』、朝日新聞社、1997
  • 岩崎好規「遺産構造物の基礎における真正性」『サイバー大学紀要』4、2012
  • 丸山敬・河合宏允・益田健吾・田村幸雄・松井正宏「台風0418号による厳島神社周辺の強風被害について」『京都大学防災研究所』年報第48号B、2005(参照:[1]
  • 泉屋博古館編集・発行『厳島神社の刀剣』(展覧会図録)、2008
  • 三浦正幸『平清盛と宮島』、南々社、2011

外部リンク

[編集]