高等師範学校
高等師範学校(こうとうしはんがっこう):
- 近代の日本に存在した中等学校教員養成機関。
- フランスの国立高等教員養成機関エコール・ノルマル・シュペリウール (École normale supérieure) の訳語。 ⇒ 高等師範学校 (フランス)
高等師範学校(こうとうしはんがっこう)は、近代の日本に存在した教員養成機関の種別の一つで、中等学校教員の養成にあたったものをいい、一般には「高師」(こうし)と略される。
概要
編集高等師範学校は明治中期から連合国軍占領期にかけて各地に存在した。
官立の高等師範学校として最終的には東京高等師範学校、広島高等師範学校、 金沢高等師範学校、岡崎高等師範学校の4校が設けられた。これに準ずる機関として、私立の旧制大学に設置された「高等師範部」「高等師範科」がある。制度上、女子高等師範学校である東京女子高等師範学校、奈良女子高等師範学校、広島女子高等師範学校の3校は、高等師範学校とは区別される。
沿革
編集学校制度としての高等師範学校の起源は1875年(明治8年)8月の東京師範学校における「中学師範学科」の設置にさかのぼる。
1872年公布の学制において、中学校教員は大学での免状を有する者と規定されていたが、この時点で最高学府としての大学は存在していなかった。しかし同時に小学校の課程を終えて中学校に進学する者が増加しており、中学校教員の社会的需要は増大していた。このため東京師範学校に中学校教員の養成学科である修業年限2年の中学師範学科が初めて設置され、小学師範学科(小学校教員の養成学科)の学科目に加えて英語が教授されるなど、より程度の高い学科目が課せられることになった。
明治10年代後半に入ると、主として小学校教員の養成を担う各府県立師範学校が整備されるようになり、官立である東京師範学校は次第にその重心を中学師範学科に移していくことになった。また、いくつかの府県立師範学校では中学師範学科を設置したものの維持の困難さから漸次廃止に追い込まれたため、結果として中等教員の養成は東京師範学校に集中していくこととなった。
このことは、学制公布当初には大学によって担われるものと規定されていた中等教員の育成が、その後高等師範学校に改組される官立(東京)師範学校に代行させるという方針転換がなされたことを意味し[独自研究?]、大学が整備されるようになって以降も高師が中等教員育成の本流と見なされる風潮が広まっていった。1878年と1883年の東京師範学校での規則改正を通じ、中学師範学科は小学師範学科とは完全に区別された学科制度として整備されることとなった。
1886年4月の師範学校令において、高等師範学校は尋常師範学校(のち師範学校と改称)の校長・教員の養成を主な任務とする学校として初めて制度化され、最初の高等師範学校にはこの時点で唯一の官立師範学校たる東京師範学校が改組・充当されることとなり国費により運営されることが定められた。同時に文部省令として「高等師範学校ノ学科及其程度」・生徒募集規則・卒業生服務規程も定められ、高等師範学校の「男子師範学科」(のちの本科)では尋常師範学校卒業を入学資格として修業年限3年とした(女子師範学科については女子高等師範学校参照)ほか、卒業後の教職服務年限を10年と規定し、これ以降高等師範学校は政府(文部省・文部大臣)の強力な統制下に置かれることとなった。
1894年制定の「高等師範学校規程」(井上毅が制定に関与したとされる)では、高師における中等学校教員養成の任務がより拡張され、そのための制度などが定められ、これに基づき1897年10月公布の師範教育令では、高師の基本的性格は師範学校令の規定を基本的に継承しつつも、師範学校のみならず尋常中学校・高等女学校など広く中等学校の教員育成にあたるものと位置づけられた。日清戦争前後のこの時期は帝国大学を始めとする他の高等教育機関の整備が進みつつあったが、これらの高等教育機関でも中等教員の養成が行われるようになったため、「高師廃止論」など高等師範学校の性格を根本的に問う世論も台頭しつつあった。こうした状況を背景に制定された高等師範学校規程は高師における中等教員養成の任務を再確認する意味を持ち、同時期に制定された中等教員の免許規則においても高師卒業生が中等教員の本体と規定されることとなった[独自研究?]。
師範学校令で規定された生徒への学費支給制度について、自費入学を初めて認める一方で基本的には支給制を維持し、1903年の服務規程改正において学費支給の程度に応じて卒業後それぞれ異なる教職服務を定めた。これにより高師は貧困層出身の優秀な子弟を生徒として吸収することに成功し、彼らに卒業後長期間の服職を義務づけ国家主義的教育の忠実な担い手とする結果を生んだのである[独自研究?]。
高師の学校組織については先述の高等師範学校規程制定以降、幾度かの改正を経て1903年までに予科・本科・研究科の設置と本科(修業年限3年)における文理2科5部(国語漢文・英語・地理歴史・理科数学・博物学)の学科構成が定着し、1911年以降高師卒業生を対象とする課程として設置が認められた「専攻科」は、のちに高師が大学昇格をめざす制度的基礎となった。
年表
編集- 1875年8月13日 - 東京師範学校に最初の「中学師範学科」を設置(修業年限2年)。
- 1875年12月 - 「中学師範学科生徒入学心得書」により中学師範学科の生徒年齢を18歳以上25歳以下と規定。
- 1877年7月 - 中学師範学科の修業年限を3年半に延長し学科目に天文学・地質学・心理学を追加。
- 1878年 - 東京師範学校の学則・諸規制の改正。中学師範学科の修業年限を4年に延長。
- 1884年9月 - 同上、中学師範学科の規則改正。
- 中学師範学科の任務を中学校・師範学校などの教員養成、入学資格を初等中学科卒業以上の学力ある者と規定した。また初等中学師範学科と高等中学師範学科に区分されるものとされたが、後者の設置は実現されなかった。
- 1886年4月10日 - 師範学校令が公布され高等師範学校が制度化。
- 1886年 - 師範学校卒業生服務規程制定。
- 高師卒業生(男子)の教職服務年限を10年とする。
- 1894年 - 「高等師範学校規定」制定。
- 文科・理科2学科および研究科・専修科の設置、選科生制度が規定される。
- 1894年 - 「尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許検定に関する規程」制定。
- 高師卒業生を中等学校教員の本体と規定した。
- 1897年10月6日 - 師範教育令が公布(施行は1898年4月1日)。
- 1897年 - この年、卒業者に対し服務期間中の服務状況報告が義務化される。
- 1898年4月 - 高等師範学校規程中改正。
- 文科を教育学部・国語漢文部・英語部・地理歴史部の4部、理科を理科数学部・博物学部の2部の構成とする。
- 1900年1月 - 高等師範学校規程中改正。
- 予科(修業年限1年)・本科(3年)・研究科(1年)・専修科(3年)・撰科を設置。本科を第1学部(国語・漢文または英語を専攻)・第2学部(地理・歴史)・第3学部(数学・物理)・第4学部(博物・農業)の4部構成とする。
- 1903年 - 高等師範学校規程中改正。
- 国語漢文部・英語部・地理歴史部・理科数学部・博物学部の5部構成が復活。
- 1902年3月28日 - 第2の官立高師として広島高等師範学校の設置。
- 1903年 - 卒業生服務規程改正。
- 学費の支給程度に応じて卒業後7年(全額支給生)、5年(一部支給生)、3年(自費生)の服職を定めた。
- 1909年 - 学費支給月額7〜10円を甲種、4〜6円を乙種として区分し同時に服務規程を改正。
- 1910年 - 学科目中、「倫理」を「修身」に改称。
- 1911年4月 - 高師卒業者を対象とする専攻科の設置を認める。
高等師範学校の一覧
編集高等師範学校
編集高等師範部・高等師範科
編集- 日本法律学校高等師範科(1901年)→日本大学高等師範部(1903年)[1]→日本大学文学部→日本大学文理学部
- 早稲田大学高等師範部(1903年)→早稲田大学教育学部
- 法政大学高等師範科(1925年)→法政大学高等師範部(1932年)[2]
- 立正大学専門部高等師範科(1925年)
- 大正大学専門部高等師範科(1926年)
- 國學院大學附属高等師範部(1927年)→國學院大學専門部高等師範部(1940年)
- 駒澤大学専門部高等師範科(1929年)
- 同志社専門学校英語師範部 → 同志社外事専門学校
- 東北学院専門部師範科(1918年) → 東北学院高等学部師範科(1929年)→ 東北学院大学文経学部(1949年)→ 東北学院大学文学部(1964年)
- 青山学院高等部英語師範科(1916年)→ 青山学院大学文学部(1949年)
- 日本女子大学師範科
脚注
編集参考文献
編集この節の加筆が望まれています。 |