趙逸
経歴
編集後趙の黄門郎の趙昌の子として生まれた。後秦の姚興に仕えて、中書侍郎をつとめた。後秦の将軍の斉難の下で軍司をつとめて、赫連勃勃を討った。斉難が敗北すると、赫連勃勃に捕らえられて、夏の著作郎となった。北魏の太武帝が統万を平定すると、趙逸の書いた文章に目を止めて追放しようとしたが、司徒の崔浩が反対したため取りやめられた。そこで中書侍郎に任じられた。430年(神䴥3年)3月上巳、太武帝が白虎殿で百官に命じて詩を詠ませると、趙逸は詩の序文を作った。しばらくして寧朔将軍・赤城鎮将に任じられ、十数年のあいだ務めた。たびたび引退を願い出て、長らくして許された。70歳を越えても、書巻を手放さなかった。趙逸の著述には、詩・賦・銘・頌が五十数篇あった。
子に趙回があり、殷州刺史となった。