虚白
江戸時代後期の臨済宗の僧、俳人
虚白(きょはく、安永2年(1774年) - 弘化4年(1847年)10月26日)は、江戸時代後期の臨済宗の僧、俳人[1][2]。僧名は松堂慧喬で、号に蔭涼軒、煨芋軒(わいうけん)がある[1]。
経歴・人物
編集近江甲賀郡土山村(現:滋賀県甲賀市土山町)の人[1]。朝廷に仕える臣下の落胤説がある[1]。
6歳で常明寺の淡嶺和尚の徒弟となる[1]。寛政3年(1791年)に行脚に出て17年間名刹を巡遊した後、35歳で師の法を継ぐ[1]。その後、肥前佐賀の高城寺、山城嵯峨の眞如寺、京都の東福寺、南禅寺で住職をし[1]、僧階最高の紫衣上堂となる[3]。晩年は東福寺塔頭の一つである即宗院に退隠した[1]。
俳諧を高桑闌更に学び、闌更門の成田蒼虬、桜井梅室、画家の中島来章などと親交した[2]。俳諧結社の「浮巣社」を結成し、創作活動を行うとともに三好赤甫など門下の俳人を育てた[4]。
虚白の句に「孑孑(ぼうふら)や蚊になるまでの浮き沈み」、「受けて待つ手をすれすれに散る紅葉」(東福寺の句碑)、「おほけなき床の錦や散り紅葉」(辞世の句)等がある。
「蔭涼虚白家集」や没後百年忌に「禅俳僧虚白 : 俳諧語録」が出版されている。