細川政之
細川 政之(ほそかわ まさゆき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。阿波国守護。細川阿波守護家6代当主。
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 康正元年(1455年) |
死没 | 長享2年7月28日(1488年9月4日) |
別名 | 弥九郎(通称)[1] |
官位 | 兵部少輔 |
幕府 | 室町幕府 阿波守護 |
主君 | 足利義政、義尚 |
氏族 | 細川阿波守護家 |
父母 | 父:細川成之 |
兄弟 | 政之、義春、清雲院、細川元有室 |
生涯
編集細川成之の長男として誕生。父同様、8代将軍・足利義政より偏諱(「政」の字)を許され政之と名乗る。応仁の乱に父と共に参戦して、足利義政・義尚に仕える。
文明10年(1478年)、娘の死を悲しんだ成之が突如出家、政之は阿波守護職を譲られ「下屋形」の家督となり、父と共に共同統治を行った。ところが、突然の当主交替に阿波細川氏の家臣は動揺し、家臣同士の対立や政之追放の企てが発覚するなどの事態が生じた。また、文明14年(1482年)7月には政之の家臣と所司代の家臣が斬り合いを起こして将軍の親裁で政之側が敗訴、憤った政之は父や重臣の反対を押し切って阿波に下向してしまった(『長興宿禰記』文明14年7月9日条・『後法興院記』同7月26日条・『大乗院寺社雑事記』同閏7月6日条)。その後、政之は再度上洛するが、文明17年7月16日には一部の重臣が成之父子に背いて阿波に帰国(『十輪院内府記』)し、同年10月に現地で反乱を起こした(『蔭涼軒日録』文明17年10月12日条)。このため、成之・政之は急遽阿波に下向して反乱を鎮圧、後継者としての力量を見せた。
だが、
嗣子がなかったため、備中守護家を継いでいた実弟の之勝(改め義春)が実家に戻って家督を継いだ。
脚注
編集- ^ 系図では「九郎」とされているが、『兼顕卿記』(文明9年2月13日条)・『親元日記』(文明10年3月2日条)・『晴富宿禰記』(文明11年5月23日条)などはいずれも「弥九郎」と記載されている。
参考文献
編集- 若松和三郎『阿波細川氏の研究』(2013年、戎光祥出版(原著は2000年私家版)) ISBN 978-4-86403-087-8