帝辛
帝辛[1](ていしん、拼音: 、紀元前1100年ごろ)は、殷の第30代(最後の)王。周の武王に滅ぼされた。一般には紂王[1](ちゅうおう、拼音: 、単に紂とも)の名で知られる。
紂王 帝辛 | |
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殷 | |
第30代王 | |
紂王 | |
王朝 | 殷 |
都城 | 商邑 |
姓・諱 | 子受 |
生年 | 不詳 |
没年 | 紀元前1046年 |
父 | 帝乙 |
※名は受とも作る。 |
帝乙の末子。異母兄に微子啓と微仲衍らがいる。子に武庚禄父ら。
紂王の紂の字は、戦国時代の竹書である『容成氏』では「受」と書かれており、本来はこちらが正しい可能性がある[2]。
史書では悪評が高い。酒池肉林の名で知られる放蕩や暴政が記されており、『史記集解』には「義を残(そこ)ない、善を損なうを紂と曰う」と記されるなど、後世に暴君の代名詞となった。
在位
編集在位はおよそ30年と推定されている。殷墟からは帝辛が埋葬される予定だったと思われる空墓が発見されているために、当時としてはいつ亡くなっても不思議ではない年齢で最期を迎えたと推測されている[3]。
考古学的研究
編集殷墟から出土した甲骨文によれば、帝辛は歴代王と同様に祖先祭祀に努めたことが判明している。また、甲骨文の研究からは前代まで続いていた人身御供を取りやめたのは帝辛だったことが判明している[4]。
帝辛の代に「東の人方(東夷)と言う部族を討ち国勢は盛んになった」と見なす研究がある。しかし盂方の離反と鎮圧などで国力が不安定になったと見る研究もある。 殷周革命は、周が衰えた殷に取って変わったというよりは、東方の経略に注意が向きすぎていた隙を突いて滅ぼしたとする説が最近では有力視されている。周の地で出土した甲骨文[5]の記述によると、周が密かに殷の東方に位置する部族へ連携を申し込んだ記述が認められる。
史書での記録
編集生涯
編集帝辛は美貌を持ち、弁舌に優れ、頭の回転が速く、力は猛獣を殺すほど強かったという。それゆえ臣下が愚鈍に見えて仕方なく、諫言を受けても得意の弁舌で煙に巻いてしまった。そのため帝辛の増長はつのり、「天王」を自称するようになる[6]。神への祭祀をおろそかにし、重税をかけて天下の宝物を自らの物にし、尤渾や費仲といった佞臣を重用、愛妾の妲己に溺れ、日夜宴会を開いて乱交にふけった。また、彼女の言うことは何でも聞き入れ実行した。この時、帝辛は肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、その上で女性をはべらかしながら、ほしいままにこれらを飲み食いした。ここから度を過ぎた享楽の事を「酒池肉林」と呼ぶようになった。
親戚に箕子と比干という賢人がいた。箕子は帝辛が象牙の箸を作ったと聞き、「象牙の箸を使うなら陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるだろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう。このように贅沢が止められなくなってしまうに違いない」と危惧し、贅沢をやめるように諫言したが、帝辛はまったく受け入れず、誅殺を恐れた箕子は狂人の振りをして奴隷の身分になった(これが後に「箕子の憂い」という故事成語となっている)。比干は、当時行われていた炮烙と言う残酷な刑罰をやめるように諫言した。しかし帝辛は聞き入れず、「聖人の心臓には七竅(顔にある7つの穴)があるという。それを見てみたいものだ」と言い、比干は胸を切り裂かれ、心臓を抉り出されて殺された。
当時、殷の最も重要な地位であった三公には、諸侯の中の実力者である西伯昌(後の文王)・九侯・鄂侯が就いていた。九侯には美しい娘がおり、帝辛はこれを妾にした。しかし、九侯と鄂公に謀反の疑いがあると知り、九侯を塩辛に、鄂侯を乾肉に処する酷刑を行い、九侯の娘も処刑した。さらに西伯昌にも謀反の疑いがあることを崇侯虎が密告した。同時に費仲もそのことを感付いて、彼を幽閉することを助言し、帝辛は西伯昌を羑里という所に幽閉した。その後、彼は財宝と領地を帝辛に献上することを条件に釈放された。
やがて西伯昌が死に、武王が立つと、ついに天下の諸侯は帝辛を倒すために立ち上がった。武王は文王の位牌を掲げ軍を起こした。その後天の声を聞いた武王はいったん兵を退かせたが、その二年後再び軍を起こし、両軍は牧野で激突した。この時殷軍は70万を超える大軍であったが、その軍は奴隷が多く占め、戦意がないどころか武王がやってくるのを待ち望んでいたほどのありさまで、殷軍はあっというまに大敗した。
首都の朝歌に撤退した帝辛は鹿台に上り、焼身自殺した。その死体は武王により鉞で首を断たれた。
評価
編集帝辛についての伝記は暴政や悪事についてが殆どであるが、殷を倒した周が武王の功績を讃え統治を正当化する意図で暴君として描いたとも考えられており、信憑性が薄いものも多い。『論語』の中で孔子の弟子子貢は「殷の紂王の悪行は世間で言われているほどではなかっただろう」旨の言葉を述べており、相当の悪評がある一方で、それに対して懐疑的な見方も既にあったことがわかる。
酒池肉林の行為などは、実際には神を降ろすための儀式であったとする説もある。[要検証 ]また、祭祀をおろそかにしたという説も旧式の祭祀を改良し、簡略化させようとしていたとする見方もあり、真相は不明である。炮烙についても、『韓非子』の喩老編では酒池肉林の一部として肉を焼くためのグリルのようなものを置いた話から、後に書かれた『史記』では罪人を焼く刑罰に話が変わっており、その意味や解説が拡大したものと考えられている。
後の世に夏の桀と共に「夏桀殷紂」と呼ばれ、暴君の代名詞となったが、両者の人物像や最期は酷似している。美女(末喜と妲己)に溺れ、政を省みず豪著な宴会(肉山脯林と酒池肉林)を催し、諫言をする臣を殺して回り、次代の王(湯王と文王)を幽閉し、名臣の補佐(伊尹と太公望)を受けた英雄に滅ぼされるという筋書きである。夏の実在が疑問視されていた時代には、帝辛の逸話を元に桀の人物像が作られたという説が有力であったが、遺跡の発見などにより夏が実在した可能性が高まっている現在では、桀の伝説に欠けている部分を帝辛の逸話から流用することによって、後の時代に穴埋めをしていったのではないかという説が有力になっている[6]。なお、殷墟から出土している甲骨文の卜辞には妲己に関する文献は見つかっていない[7]。
説話
編集『封神演義』などをはじめとした小説作品において、紂王の名で広く登場が見られる。日本でも高井蘭山『絵本三国妖婦伝』などに妲己の正体を天竺・中国・日本をまたにかけた九尾の狐であるとした物語が描かれ、そこに登場している。
脚注
編集- ^ a b これら諡号・名とも殷滅亡後に呼ばれたものである。この帝辛のように殷王の諡号として「帝」を含むことは異例であり、出土した甲骨文占卜の中の殷王の諡号にも、「帝」を含む殷王の例はない。しかし、武丁を帝丁と呼んでいる事例もあることから、殷王の諡号として必ずしも矛盾と断ずることはできない。
- ^ 佐藤信弥 「周―理想化された古代王朝」(中央公論新社、2016年)
- ^ 帝辛の暴君説を疑問視している作家の陳舜臣は高齢による老害の可能性もありうると著書の『中国五千年』で指摘している。
- ^ 陳舜臣『中国五千年』(上) 講談社<講談社文庫> 1998年 57頁。 陳舜臣によると、生産が増えたために、殺害するよりも働かせた方がよいと判断したのか、羌族が昔に比べて容易に捕獲出来なくなったとの説を述べている。
- ^ 近年になって殷でしか使われていないと思われていた甲骨文が周原からも出土している。
- ^ a b 袁珂 『中国の神話伝説』下、鈴木博 訳、青土社、1993年、56-58頁。
- ^ 陳舜臣『中国五千年』(上) 講談社<講談社文庫> 1989年 58頁。