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石原千秋

日本の国文学者

石原 千秋(いしはら ちあき、男性、1955年11月30日[1] - )は、日本国文学者[2][3]。専門は日本近代文学早稲田大学教授。

経歴

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1955年11月30日に東京都狛江市に生まれる[4]。父は石原進[5]予科練出身のパイロットで、航空自衛隊のテストパイロットだったが、千秋が5歳の時に飛行機事故で死去した[6]。中学校は狛江市立狛江第二中学校に進学。中学校では国語を詩人の牟礼慶子に教わり、2年生で文章を書くのが好きになったとし、自身の著書では「僕は詩人の牟礼慶子に『国語』を教わる幸運に恵まれた」と述べている[7]

1979年成城大学文芸学部国文学科卒業。1983年同大学院博士課程後期中退(文学修士)。1983年東横学園女子短期大学助教授、1993年成城大学文芸学部教授、2003年早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専門は日本近代文学研究[8]

人物

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著書

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単著

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共編著

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  • 石原千秋、木股知史小森陽一島村輝高橋修高橋世織『読むための理論 文学・思想・批評』世織書房、1991年6月。 
  • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石と世紀末』』翰林書房〈漱石研究 創刊号〉、1993年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『三四郎』』翰林書房〈漱石研究 第2号〉、1994年5月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石とセクシャリティ』』翰林書房〈漱石研究 第3号〉、1994年11月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『硝子戸の中』『道草』』翰林書房〈漱石研究 第4号〉、1995年5月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石と明治』』翰林書房〈漱石研究 第5号〉、1995年11月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『こゝろ』』翰林書房〈漱石研究 第6号〉、1996年5月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石と子規』』翰林書房〈漱石研究 第7号〉、1996年12月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『夢十夜』』翰林書房〈漱石研究 第8号〉、1997年5月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石と家族』』翰林書房〈漱石研究 第10号〉、1998年5月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『彼岸過迄』』翰林書房〈漱石研究 第11号〉、1998年11月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『坊つちやん』』翰林書房〈漱石研究 第12号〉、1999年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『漱石山脈』』翰林書房〈漱石研究 第13号〉、2000年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『吾輩は猫である』』翰林書房〈漱石研究 第14号〉、2000年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『行人』』翰林書房〈漱石研究 第15号〉、2002年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『虞美人草』』翰林書房〈漱石研究 第16号〉、2003年10月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『門』』翰林書房〈漱石研究 第17号〉、2004年11月。 
    • 小森陽一・石原千秋 編『特集『明暗』』翰林書房〈漱石研究 終刊号〉、2005年11月。 
  • 小森陽一・石原千秋 編『漱石を語る 1』翰林書房〈漱石研究叢書〉、1998年12月。ISBN 9784877370565 
  • 小森陽一・石原千秋 編『漱石を語る 2』翰林書房〈漱石研究叢書〉、1998年12月。ISBN 9784877370572 
  • 石原千秋、亀山郁夫三浦雅士藤井省三加藤典洋 著、菅野昭正 編『村上春樹の読みかた平凡社、2012年7月。ISBN 9784582835809https://www.heibonsha.co.jp/book/b162758.html 
  • 石原千秋、小森陽一『漱石激読』河出書房新社〈河出ブックス 104〉、2017年4月。ISBN 9784309625041http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309625041/ 

解説

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監修

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関連項目

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  • 荻上チキ(成城大学石原ゼミ出身)[13]
  • 坂本浩(教え子に石原)[14]
  • 深作健太(成城大学石原ゼミ出身)[15]
  • 高田瑞穂(石原は成城大学の学生だった時、高田ゼミに所属していた)[16]
  • 牟礼慶子(石原が中学生だった時の国語の先生)[17]
  • 文月悠美(早稲田大学石原ゼミ出身)
  • かしまゆう(成城大学石原ゼミ出身)

脚注

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  1. ^ 『文藝年鑑2007』
  2. ^ 【文芸時評】5月号 「コロナ世代」への責任 早稲田大学教授・石原千秋”. www.sankei.com. 産経新聞. 2020年8月2日閲覧。
  3. ^ 人が意識していないものを現すのが、文学。もっと社会への発信力を”. www.wakuwaku-catch.jp. 河合塾. 2020年8月2日閲覧。
  4. ^ 「尚絅大学設立40周年記念講演会」の開催について”. 尚絅学園 (2015年11月12日). 2023年2月16日閲覧。
  5. ^ 日本海軍航空隊
  6. ^ 『みすず』2018年1・2月号「2017年読書アンケート」68p
  7. ^ 『教養としての大学受験国語』筑摩書房、7、15頁,298頁頁。ISBN 9784480058539 
  8. ^ researchmap - 石原千秋 https://researchmap.jp/read0044380/
  9. ^ 高田瑞穂『新釈現代文』 ちくま学芸文庫 p.252
  10. ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「二浪を覚悟したとき、新聞広告で成城大学の二期試験が三月にあることを知った」(299頁)、「発表の日、僕の受験番号はなかった。すぐ帰ろうとしたが、まわりを見ると、掲示板を見て立ちつくしている。『あんなふうにするものなんだ』とか『あんなにできても落ちるんだ』とか呟きながら掲示板を見ていると、夕方の光線の加減で末尾の『七』が『三』に変わったのだ。『いまのうちだ!』僕は大慌てで受験票を合格書類と取り替えた」(299-300頁)とある。
  11. ^ 石原千秋『反転する漱石』(1997年)に、「大学院生時代からあたたかく見守って下さっている東郷克美先生に私の漱石論をまとめて読んでいただけるのは大きな喜びである」(386頁)とある。あるいは、石原千秋『百年前の私たち』に、「この連載をはじめたとき、恩師の東郷克美先生が『連載、好調なスタートだね』と声をかけてくださった」(268頁)とある。
  12. ^ 山梨県立文学館 - やまなし文学賞 過去の受賞作 http://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/prize/%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%8F%97%E8%B3%9E%E4%BD%9C.pdf
  13. ^ 学校法人成城学園企画広報部編『sful 成城だより』vol.5(2015年7月)「対談 石原千秋×荻上チキ『文学を通して世界を見るその目はここで鍛えられた』」(10-13頁)に、「石原 荻上君が僕の講義を受けたのは2年生の演習からだったかな」、「荻上 僕は石原先生に、体系を学ぶと世界の見え方が違うことを教わって、齢20にして勉強は面白いんだと目覚めました」(12頁)とある。
  14. ^ 石原千秋『漱石と日本の近代(下)』に、「成城大学時代の私の恩師の一人・明治四十年生まれの坂本浩は、昭和四年に熊本の第五高等学校を卒業して東京帝国大学の文学部国文学科に進学したまさに小川三四郎のような人で、近代文学研究の草分け的存在だった」(166頁)とある。
  15. ^ 石原千秋『学生と読む『三四郎』』に、「その昔、深作健太という名の学生が(彼はもう『公人』だから、名前を言ってもいいだろう)、僕の演習の授業で横光利一の『上海』のレポートを書いたことがある。しかし、何度読んでもヘンなのである。[…]僕にはそれがまったく理解できなかったから、黙って九十点を付けた」、「その後彼は僕のゼミに来て、一度も論文指導を受けずに『悦びの王権』というタイトルの谷崎潤一郎『細雪』論を書いた。[…]個性的な文体で、みごとな完成度を示していた。卒業論文の試問では、副査の教員が『修士論文としても十分通用する』と感嘆の声をあげた。その経験から、『僕には天才は育てられないし、評価もできない。だから、ただそっとしておくのがよい』という教訓を得た」(110頁)とある。
  16. ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「僕が大学受験をした昭和四十九年から五十年頃には、後に大学で僕自身の恩師の一人となる高田瑞穂先生の『新釈 現代文』(新塔社)という本が、大学受験国語参考書の定番だった」(8頁)とある。あるいは、石原千秋『生き延びるための作文教室』に、「高田瑞穂先生。実は、ぼくの大学時代のゼミの先生である」(21頁)とある。
  17. ^ 石原千秋『教養としての大学受験国語』に、「もう三十年も前のことになるが、東京の西のはずれにある狛江という小さな町の中学校で、僕は詩人の牟礼慶子に『国語』を教わる幸運に恵まれた」(298頁)とある。あるいは、石原千秋『生き延びるための作文教室』に、「ぼくが作文が得意だと自覚したというか、文章を書くのが好きになったのは中学二年生の時だった。その頃ベストセラーだった北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズに凝っていたので、そっくりな文章で作文を書いていた。北杜夫のように上品なユーモアではなく、無理に笑わせようとしてすべっていたと思うが、国語の谷田慶子先生(詩人の牟礼慶子です)がとても面白がってくれた」(15頁)とある。

外部リンク

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