本多忠寄
本多 忠寄(ほんだ ただより)は、江戸時代前期の陸奥国石川藩、三河国挙母藩の世嗣。通称は千之助、一学。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛文2年(1662年) |
死没 | 元禄3年11月23日(1690年12月23日) |
別名 | 千之助、一学(通称) |
戒名 | 済誉知広英往生徳院 |
墓所 | 奈良県奈良市の王龍寺 |
藩 | 陸奥石川藩世嗣→三河挙母藩世嗣 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 |
本多忠義 本多忠利 |
兄弟 |
忠平、忠利、忠以、忠晴、忠周、忠常、 忠寄、清性院、井上正任正室、 金森頼直正室、心涼院、清殊院、 石川総良側室、勢幾、松平忠倫正室 |
略歴
編集本多忠義の七男として誕生。
嫡子のなかった兄・忠利の養子となり、延宝4年(1676年)徳川家綱に御目見する。しかし、家督を相続することなく元禄3年(1690年)に29歳で没した。代わって、忠次(長府藩主・毛利綱元の次男)が忠利の婿養子に迎えられ、嫡子となった。