有馬直純
安土桃山時代から江戸時代前期の大名。肥前日野江藩主、日向延岡藩主。晴信系肥前有馬氏2代。有馬晴信の長男。
有馬 直純(ありま なおずみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。肥前国日野江藩主、日向国延岡藩主。晴信系肥前有馬氏2代。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正14年(1586年) |
死没 | 寛永18年4月25日(1641年6月3日) |
改名 | 忠清(初名)、直純 |
戒名 | 月光院殿金吾身誉崇出大居士 |
霊名 | ミゲル |
墓所 | 福井県坂井市丸岡町石城戸町の白道寺 |
官位 | 従五位下・左衛門佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 肥前日野江藩主、日向延岡藩主 |
氏族 | 肥前有馬氏 |
父母 | 父:有馬晴信、母:大上(山田純規娘) |
兄弟 | 西郷純経室、直純、純貞、酒井摂津守室、菊亭季持室、有馬純忠室、富蘭、於松、実尊ら |
妻 |
正室:小西如清の娘・マルタ 継室:栄寿院(徳川家康養女) |
子 | 康純、本多政勝正室、吉子(本多政勝養妹)、純政、長子(秋元富朝正室)、有馬純親室 |
生涯
編集天正14年(1586年)、有馬晴信の嫡男として肥前国日野江城に生まれる[1]。父同様キリシタンであり、洗礼名はミゲル。
慶長5年(1600年)、15歳から親元を離れ駿府城で徳川家康に側近として仕える。慶長15年(1610年)、キリシタンであった妻・マルタ(小西行長の姪)を離縁し、家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として娶った。
慶長17年(1612年)に父晴信は岡本大八事件の責任を問われ(直純は早期の家督継承と、妻・国姫の意向を受けてキリシタンとの縁を切るべく、父を処断するように幕臣へ訴えたともされる)、改易のうえ死罪となったが、直純は家康との縁が深かったために連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江藩主となった。同年の江戸幕府による禁教令に従い改宗し、領内のキリシタンを迫害した。また、慶長18年(1613年)4月25日には、父とその後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟(フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)という洗礼名のみ残る)を殺害している。
しかし、これらのことから良心の呵責に耐えかねて嫌気がさし、幕府に転封を願い出て慶長19年(1614年)7月に日向延岡に5万3千石の所領を与えられた。寛永14年(1637年)に旧領で起こった天草・島原の乱においては、地理に明るいことから4000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、乱を起こした自らの旧臣や元領民と対決した。なおこの時、豊前中津藩主小笠原長次配下の軍監として参戦していた剣豪・宮本武蔵から書簡を受け取っている[2]。
系譜
編集父母
正室、継室
子女