小松辰雄
小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、石川県羽咋郡富来町(現:志賀町)[1]出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。現在はCBCテレビ・CBCラジオ野球解説者・中日スポーツ野球評論家・YouTuber。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 石川県羽咋郡富来町(現:志賀町) |
生年月日 | 1959年5月10日(65歳) |
身長 体重 |
178 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト2位 |
初出場 | 1978年10月4日 |
最終出場 | 1994年8月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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小松 辰雄 | |
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YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2022年3月9日 - |
ジャンル | 野球 |
総再生回数 | 36,938回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2022年5月13日時点。 |
経歴
編集プロ入り前
編集小学生当時より強肩ぶりを発揮し、6年生の時[3]に町内の小学生が集まり記録を競う「陸上競技記録会」のソフトボール遠投にて70m88cmの記録[3]を残す[1]。中学入学後に野球を始め、エースピッチャーとして活躍する一方で3年の時には走り高跳びの県大会に参加し3位になっている[1]。
1976年の夏の甲子園に石川・星稜高等学校の2年生エースとして出場。準決勝まで進出し、その年の優勝校である西東京代表の桜美林高と対戦。松本吉啓(明大-明治生命)に抑えられ敗退したものの、その剛速球は注目されることとなった。同年の日韓親善高校野球に松本、酒井圭一、山崎隆造らとともに参加している。
3年生となった翌1977年春の選抜では、1回戦で滝川高のアンダースロー技巧派、西口訓史(國學院大)と投げ合うが完封負け。前の試合が長くなり、ナイター照明が灯されたが、視力が悪くサインが見えないことに焦ってしまい、思うようにプレーできなかった[4]。同年夏の甲子園では、1回戦で奈良・智弁学園の山口哲治と壮絶な投手戦を繰り広げるが、序盤に制球を乱して喫した2失点が響き、1対2で敗退した。
この年の高校球界には、小松や山口の他にも夏の甲子園で優勝した兵庫・東洋大姫路高校の松本正志、福島県予選を無失点で制した福島商業高校の三浦広之、春の覇者、箕島高校を予選で破った和歌山・田辺高校の木下透と才能あふれる投手が数多く高卒でプロ球界に入団したが、長く活躍できたのは小松だけである。
同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受ける(1位指名は入団が1978年秋まで遅れ、1979年に新人王となった藤沢公也)。元々プロ入りの意向は持っていたものの、小松自身は1位指名だろうと思っていたので、当時は2位指名であることが受け入れられず、駒澤大学進学へ気持ちが揺らぎ、入団拒否の姿勢を見せた。駒澤大学は星稜の山下智茂監督の出身校でもあり、太田誠監督が石川まで小松を訪ねてくるほど熱心だった[5]。これに対しドラゴンズは、スカウトの法元英明が1ヶ月以上も小松に張り付いて説得を行い、小松も翻意してドラゴンズ入団を決めた。ただ駒澤大・太田監督への配慮もあり、入団会見では星稜・山下監督が同席しないなど、いろいろとしこりを残す結果となった[6]。
プロ時代
編集1978年、プロ初登板は10月4日の対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)。0-8でビハインドの状況、肩の痛みもある中で、主力の杉浦享からプロ初三振を奪った。7回、8回を無失点に抑えたが、その日はヤクルトの初優勝が決定した日となった[7]。
1979年、4月11日の対ヤクルト戦(ナゴヤ球場)で3番手で登板し、プロ初勝利を記録[8]。リリーフとして一軍に定着し、チーム最多の54試合に登板し6勝9敗16セーブを記録。5月には14試合に救援登板し、1勝1敗5セーブの好成績で月間MVPを獲得した[9]。
1980年は9月10日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)でプロ入り初先発し、6回に山根和夫からプロ入り初本塁打を放った[10]が、投げては7回途中まで2失点で敗戦投手となった[11]。
1981年は藤沢らの不調もあって7月に先発に転向。同月15日の対ヤクルト戦で(明治神宮野球場)はシーズン初の先発登板で、9回2失点でプロ入り初完投勝利[12]。9月21日の読売ジャイアンツ戦ではプロ入り初完封勝利を挙げ、前年から174試合連続得点を続けていた巨人の記録を止める[13]など、同月は5勝無敗で自身2度目の月間MVPに選出された[14]。同年は初めて規定投球回(リーグ5位、防御率3.56)に達し、12勝6敗11セーブを記録する。
1982年は、4月4日の広島との開幕戦(広島市民球場)で自身初の開幕投手を務めるも2回5失点で敗戦投手となった[15]。同月6日の対阪神戦(ナゴヤ球場)の試合前、外野で遠投している際に右太腿を痛め[16]、翌7日に出場選手登録を抹消された[17]。8月1日に一軍に復帰[17]後、入れ替わりに故障して二軍落ちした牛島和彦に代わって抑えを務めた。優勝決定試合となった10月18日の大洋戦。監督2年目の近藤貞雄は小松を先発に選んだ。小松は2安打完封に抑え、中日は3回目のリーグ優勝を果たした[18]。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは5試合に登板。第1戦(ナゴヤ球場)では先発登板するが、3回にスティーブに本塁打を打たれるなど、5失点で降板、敗戦投手となる[19]。しかし第4戦(西武ライオンズ球場)ではリリーフで6回から3イニングを好投、牛島和彦につないで自身のシリーズ初勝利を記録した[20]。第5戦(西武ライオンズ球場)では鈴木孝政をリリーフするが、7回にスティーブ、片平晋作にそれぞれ適時打を打たれ、2点を失い惜敗[21]。シリーズ通算1勝2敗で日本一はならなかった。オフの11月24日に扁桃腺切除の手術を受けた[22]。同月30日の契約更改では約8パーセント減の推定年俸1100万円でサイン[22]。12月11日に1歳年上の一般女性と結婚したことを発表した[23]。
1983年、4月14日の対大洋戦(横浜スタジアム)で6回2/3を投げ、3失点でシーズン初勝利[24]、同月26日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では自身初の無四球完封勝利を挙げた[25]。10月21日の対阪神戦(ナゴヤ球場)では9回2失点完投勝ちでチームの連敗を8で止めた[26]が、 同年はリーグ5位の防御率3.20、7勝14敗5セーブの成績に終わった[27]。
1984年、4月17日の対阪神戦(岡山県野球場)でシーズン初勝利を完封で飾った[28]。9月2日の対大洋戦(横浜スタジアム)ではシーズン2度目の完封で3年ぶり2度目の2桁勝利を記録した[29]。シーズン中は右足太腿の故障や結膜炎で計2か月の戦列を離れたが、最終的に防御率はリーグ3位の3.05、11勝6敗2セーブという成績であった[30]。オフの12月6日の契約更改では1000万円増の推定年俸2650万円の掲示を保留[31]、同月27日の2度目の契約更改では約80パーセント増の推定年俸3000万円でサインした[30]。
1985年、4月13日のヤクルトとの開幕戦(ナゴヤ球場)で9回2失点でシーズン初勝利[32]、6月7日の対巨人戦(ナゴヤ球場)ではシーズン唯一の完封勝利を挙げた[33]。シーズン中は右足を故障したもの[34]の最多勝、最優秀防御率、最優秀投手、沢村賞の投手タイトルを総て獲得[35][36]、リーグ最多奪三振も記録する。生涯唯一のベストナインにも選出された[37]。オフの12月9日の契約更改では50パーセント増の推定年俸4500万円でサインした[34]。
1986年は開幕戦でピッチャーライナーを足に受けた影響で成績は振るわず。
1987年にはリーグ1位の6完封[注 1]を含む17勝で自身2度目の最多勝を獲得した[44]。オフの12月10日の契約更改では約5割増の推定年俸6000万円(タイトル料200万円を含む)でサインした[45]。
1988年には開幕戦で内転筋を痛めたものの12勝を挙げて6年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年の西武との日本シリーズでも2試合に登板。第2戦では先発し、郭泰源と投げ合い6回を3点に抑えるが勝ち負けはつかなかった。オフの12月3日の契約更改では200万円減の推定年俸5800万円でサインした[46]。
1989年は左足を故障で5試合の登板に止まり、0勝に終わった。オフの12月6日の契約更改では1300万円減の推定年俸4500万円でサインした[47]。
1990年、4月11日のヤクルト戦に先発し、1988年10月16日の同じヤクルト戦以来2年ぶりの勝利投手となる[48]。
1992年、7月4日の対大洋戦(岩手県営野球場)では4年ぶりの完封勝利を挙げた[49]。
1994年限りで現役引退[50]。本人は翌年も現役続行を希望していたものの、自身を高く評価してくれていた高木守道監督の退任が濃厚とされており、コーチ就任を打診される。小松は中山了球団社長に現役続行を直訴したが、中山は首をたてにふらず、「『じゃあ小松辰雄って選手はいらないんですか』って聞いたら『いらん!』と言われて」引退を決めた。また引退試合も、本来であれば同年のシーズン最終戦で行われるはずだったが、その最終戦がいわゆる10.8決戦となってしまったため、結局1995年3月26日、ナゴヤ球場でのオープン戦で行われ、5回に登板した。最後に対戦した打者は、少年時代に小松に強く憧れていたイチローだったが、初球ボールの後の2球目を右中間に二塁打を打たれ、「引退試合」の投球は2球で終わった[51]。
引退後
編集引退後、1995年は中日の二軍投手コーチ[50]、1996年から1997年まで一軍投手コーチを務めた。97年はチーム防御率がリーグ5位と低迷して最下位に転落し、同年オフに宮田征典を一軍投手コーチに招聘したのと入れ替えに解任される。当時監督だった星野仙一は著書の中で「現役陣と年が近すぎたせいか、選手との仲間意識を捨てきれない。時には情を捨て、厳しさを前面に出すことが必要なのだ。ところが小松は兄貴からコーチへ変わって行けなかった。中日OBにもコーチとしてのチャンスを与えたかった。しかし、二年経っても、小松コーチに著しい進歩がない以上、もう一度コーチングスタッフの体制を見直さなければならないと考えてのことだった」[52]と記している。
1998年からは、CBCテレビ・CBCラジオの野球解説者および中日スポーツ野球評論家を務める。
2010年、名古屋市中区錦三丁目に飲食店「焼処 旨い物 海鮮山」を開いた。現役の頃から「能登の食材を使った店を出して、おいしいものを食べてもらいたい」という夢があったという[53]。
2017年12月12日、名古屋市東区赤塚の交差点で自身がトヨタ・クラウンを運転中、自転車と衝突する事故を起こした(自転車に乗っていた男性はその後死亡)。書類送検されてCBCテレビ・CBCラジオ野球解説者および中日スポーツ野球評論家としての活動を自粛していたが、2018年4月26日付けで不起訴処分になった(不起訴の理由は明らかにされていない)[54]。同年7月からCBCテレビ・CBCラジオ野球解説者および中日スポーツ野球評論家に復帰した。2023年11月26日に中日OB会長に選出された[55]。
人物
編集高校2年生で夏の甲子園に出場した際、入場行進の隣の列に1学年上の原辰徳(東海大相模高校)がおり、「あの人が原さんかぁ!」と憧れの眼差しで見ていた[56]。
二女の小松亜有は2009年度の日本女子プロゴルフ協会主催のプロテストに合格し、プロゴルファーとしてデビューしている[57][58][59]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978 | 中日 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 19 | 4.0 | 4 | 1 | 5 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 5 | 11.25 | 2.25 |
1979 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 9 | 16 | -- | .400 | 410 | 97.1 | 90 | 6 | 37 | 4 | 5 | 86 | 1 | 0 | 30 | 29 | 2.68 | 1.30 | |
1980 | 39 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 6 | -- | .167 | 269 | 64.0 | 61 | 2 | 27 | 3 | 4 | 33 | 4 | 0 | 28 | 26 | 3.66 | 1.38 | |
1981 | 42 | 14 | 6 | 1 | 0 | 12 | 6 | 11 | -- | .667 | 637 | 152.2 | 139 | 22 | 41 | 1 | 11 | 122 | 2 | 0 | 62 | 52 | 3.07 | 1.18 | |
1982 | 28 | 2 | 1 | 1 | 0 | 4 | 4 | 9 | -- | .500 | 259 | 62.1 | 43 | 4 | 28 | 3 | 2 | 58 | 2 | 0 | 19 | 18 | 2.60 | 1.14 | |
1983 | 35 | 24 | 9 | 1 | 2 | 7 | 14 | 5 | -- | .333 | 784 | 191.1 | 181 | 20 | 49 | 5 | 5 | 133 | 1 | 0 | 74 | 68 | 3.20 | 1.20 | |
1984 | 29 | 23 | 11 | 2 | 1 | 11 | 6 | 2 | -- | .647 | 786 | 186.0 | 166 | 27 | 59 | 5 | 6 | 168 | 1 | 0 | 75 | 63 | 3.05 | 1.21 | |
1985 | 33 | 25 | 14 | 1 | 2 | 17 | 8 | 1 | -- | .680 | 864 | 210.1 | 185 | 24 | 48 | 3 | 4 | 172 | 1 | 0 | 70 | 62 | 2.65 | 1.11 | |
1986 | 24 | 20 | 5 | 1 | 1 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 570 | 138.2 | 134 | 18 | 31 | 4 | 2 | 97 | 1 | 0 | 56 | 54 | 3.50 | 1.19 | |
1987 | 28 | 25 | 10 | 6 | 0 | 17 | 6 | 0 | -- | .739 | 802 | 200.1 | 167 | 22 | 41 | 7 | 6 | 147 | 2 | 0 | 65 | 61 | 2.74 | 1.04 | |
1988 | 24 | 23 | 5 | 2 | 0 | 12 | 7 | 0 | -- | .632 | 652 | 157.1 | 137 | 20 | 49 | 4 | 5 | 114 | 1 | 0 | 71 | 57 | 3.26 | 1.18 | |
1989 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 115 | 24.2 | 34 | 6 | 9 | 1 | 2 | 11 | 1 | 0 | 23 | 21 | 7.66 | 1.74 | |
1990 | 18 | 18 | 3 | 0 | 0 | 6 | 5 | 0 | -- | .545 | 488 | 111.2 | 123 | 12 | 38 | 3 | 5 | 87 | 0 | 0 | 56 | 51 | 4.11 | 1.44 | |
1991 | 23 | 18 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 402 | 95.2 | 94 | 18 | 26 | 2 | 1 | 69 | 0 | 0 | 48 | 47 | 4.42 | 1.25 | |
1992 | 22 | 22 | 2 | 1 | 0 | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 555 | 125.2 | 151 | 19 | 39 | 3 | 2 | 69 | 2 | 0 | 70 | 67 | 4.80 | 1.51 | |
1993 | 16 | 16 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 0 | -- | .636 | 329 | 77.0 | 72 | 9 | 33 | 0 | 4 | 49 | 1 | 0 | 34 | 31 | 3.62 | 1.36 | |
1994 | 10 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 188 | 41.2 | 57 | 8 | 13 | 0 | 0 | 28 | 0 | 0 | 29 | 29 | 6.26 | 1.68 | |
通算:17年 | 432 | 246 | 66 | 16 | 6 | 122 | 102 | 50 | -- | .545 | 8129 | 1940.2 | 1838 | 238 | 573 | 48 | 64 | 1446 | 20 | 0 | 815 | 741 | 3.44 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
編集表彰
編集記録
編集- 初記録
- 初登板:1978年10月4日、対ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初奪三振:同上、7回裏に杉浦亨から
- 初勝利:1979年4月11日、対ヤクルトスワローズ2回戦(ナゴヤ球場)、8回表一死に3番手で救援登板・完了、1回2/3を無失点
- 初セーブ:1979年4月12日、対ヤクルトスワローズ3回戦(ナゴヤ球場)、8回表に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初先発:1980年9月10日、対広島東洋カープ22回戦(ナゴヤ球場)、6回1/3を2失点で敗戦投手
- 初先発勝利・初完投勝利:1981年7月15日、対ヤクルトスワローズ14回戦(明治神宮野球場)、9回2失点
- 初完封勝利:1981年9月21日、対読売ジャイアンツ22回戦(ナゴヤ球場)
- 節目の記録
- その他の記録
背番号
編集- 34 (1978年 - 1983年)
- 20 (1984年 - 1994年)
- 94 (1995年)
- 71 (1996年 - 1997年)
出演番組
編集テレビ
編集ラジオ
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、229ページ
- ^ “【甲子園剛球列伝】“スピードガンの申し子”星稜・小松辰雄、手が痛すぎて捕手が次々といなくなった…”. ZAKZAK. (2019年6月21日) 2021年4月5日閲覧。
- ^ a b ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2023年1月25日
- ^ ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2023年11月1日
- ^ ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2024年2月14日
- ^ 2位指名にブチ切れ「もう来ないでください」 入団拒否の大投手落とした“猛口説き” - Full-Count・2023年1月31日
- ^ ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2024年11月6日
- ^ 「小松辰、快速球の初白星 プロ入り二年目 救援でヤクルトから」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1979年(昭和54年)4月12日付朝刊、17面。
- ^ a b 「5月のMVP 小松辰とマニエル」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1979年(昭和54年)6月8日付朝刊、17面。
- ^ 「記録メモ(10日) 中日・小松辰雄(二一)がプロ入り初ホーマー」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)9月11日付朝刊、17面。
- ^ 「初先発・小松辰もたず 広島、ジワリ攻略 7回降板 山根は久々の完投勝ち」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1980年(昭和55年)9月11日付朝刊、17面。
- ^ 「中日・小松、初先発で完投勝利」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1981年(昭和56年)7月16日付朝刊、17面。
- ^ 読売新聞1981年9月22日17面「巨人、ついにゼロ更新 今季初、昨年から175試合目」読売新聞1981年9月p865
- ^ a b 「9月MVP 小松と間柴」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1981年(昭和56年)10月6日付朝刊、19面。
- ^ 「北別府、完封一番 打線援護 山本浩、衣笠がアーチ」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)4月5日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ^ 「小松、安静一週間」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)4月7日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ a b 「小松を現役登録 中日」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)8月2日付夕刊、6面。
- ^ “中日OBに聞く80年代・小松辰雄「星野監督がチームを戦う集団に変えた。2度の優勝はどちらも開幕投手でした」”. 週刊ベースボール. (2021年2月16日) 2021年2月24日閲覧。
- ^ 「"魔の開幕戦" 小松」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)10月24日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「小松―牛島で"締め"」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)10月28日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「西武 日本一へ王手 小松倒し 東尾で締め」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)10月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ a b 「プロ野球情報 小松、減俸のんで更改」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)12月1日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ^ 「速球王・小松が挙式」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)12月12日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ^ 「小松が初勝利 牛島好リレー 大洋、決定打を欠く」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)4月15日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「小松 "巨人封じ" 150キロ 5連勝を阻む 散発3安打 初の無四球も」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)4月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「大島、逆転の35号アーチ」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)10月22日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)10月25日付朝刊、15面(スポーツ面)、投手成績より。
- ^ 「小松、阪神を4安打ゼロ封」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1984年(昭和59年)4月18日付朝刊、17面。
- ^ 「背番号20 中日 小松辰雄投手 頼もしエース 先発・抑えの二刀流も」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)9月3日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ a b 「プロ野球情報 3千万円投手4人も」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)12月28日付朝刊、11面(スポーツ面)。
- ^ 「プロ野球情報 郭は三千二百万円」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)12月7日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「小松が完投勝利 モッカV打」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)4月14日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「巨人連夜の0行進」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)6月8日付朝刊、15面(スポーツ面)。
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- ^ a b c 「バース三冠王 セ公式戦 全日程終了 V打点、出塁率も 最多勝、防御率は小松」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月25日付朝刊、14面(スポーツ面)。
- ^ a b 「小松に沢村賞 2冠、奪三振を評価」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)10月29日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ a b 「ベストナイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1985年(昭和60年)11月6日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「やった! 星野中日 初白星 小松、3安打完封 川又、ゲーリー援護の一発」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)4月13日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「小松、初の連続完封 宇野、連続ホーマー」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)4月20日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「小松にG沈黙 槙原、ゲーリーの一発に泣く」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)6月20日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 「小松 コイ封じ 落合先制2ラン 宇野も2連発」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)7月3日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 「小松巧投 コイ封じ」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)8月15日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ 「どっこい 竜 小松完封 ゲーリー 江川砕く 23号」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)9月3日付朝刊、15面(スポーツ面)。
- ^ a b 「篠塚 正田 首位打者分け合う セ・リーグも全日程終了」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)10月23日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 「球界ルポ 10日 小松5割増一発サイン」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)12月11日付朝刊、17面(スポーツ面)。
- ^ 「球界情報 3日 中日・小松がダウン更改、小野は倍増を保留」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1988年(昭和63年)12月4日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 「球界情報 6日 中日・小松投手 大幅ダウン」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)12月7日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 読売新聞1990年4月12日19面「復活だ!147㌔!地獄見た日に涙」読売新聞1990年4月p605
- ^ 「小松4年ぶり完封 意地の3安打"粘投"8勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1992年(平成4年)7月5日付朝刊、22面(スポーツ面)。
- ^ a b 「中日・小松が引退 来季から二軍投手コーチに」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)10月20日付朝刊、18面(スポーツ面)。
- ^ 社長の「いらん」に「じゃあ、やめますわ!」 二転三転の監督人事…割食ったエース - Full-Count・2023年2月11日
- ^ 星野仙一著『ハードプレイ・ハード 勝利への道』文藝春秋、2000年、62頁。
- ^ 洞山和哉 (2019年5月3日). “元中日投手・小松辰雄さん、現役の頃からの夢をかなえた「能登の食材を使ったおいしいものを食べてもらいたい」”. スポーツ報知 2021年2月24日閲覧。
- ^ 元中日の小松辰雄さん不起訴 死亡事故で名古屋地検 スポーツニッポン 2018年4月27日
- ^ 中日ドラゴンズOB会、鈴木孝政会長が退任し小松辰雄さんが新会長に「何とかバックアップできるようにやっていきたい」 - 中日スポーツ、東京中日スポーツ
- ^ ドラゴンズスペシャル ドラ魂キング 2023年11月1日
- ^ ““豪腕”の父が娘をサポート! 注目の小松親子”. GDO. (2010年5月21日)
- ^ “小松辰雄氏次女・亜有 ベストスコアで2差6位発進!”. スポニチアネックス. (2011年7月2日)
- ^ 小松亜有 Amebaプロフィール
- ^ 「1000奪三振」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)8月27日付朝刊、23面(スポーツ面)。
- ^ 「中日・小松辰雄(三一)が13年目で通算100勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)8月23日付朝刊、18面(スポーツ面)。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 小松辰雄 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)